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信心開発の時剋の極促 [「信巻を読む(2)」その14]

第2回 信の一念

(1) 信楽開発の時剋の極促

これまで「横超の菩提心」が主題でしたが、次に「信の一念」が取り上げられます。まずは親鸞の自釈です。

それ真実の信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発(かいほつ)の時剋の極促(ごくそく)を顕し、広大難思の慶心(きょうしん)を彰すなり。

真実の信心(菩提心)は如来回向の信心(横超の信心)であることが述べられてきましたが、これから、その信心がわれらにおこる「時」を「信の一念」として明らかにされていきます。すでに「行巻」にこう言われていました、「おほよそ往相回向の行信について、行にすなはち一念あり、また信に一念あり。行の一念といふは、いはく、称名の遍数(へんじゅ、回数)について選択易行の至極を顕開す」と。このように「行の一念」について述べられたのを受けて、今度はここ「信巻」で「信の一念」について明らかにしようということです。

「念」という文字は、仏教においては「非常に短い時間」という意味でつかわれることがありますが、一般には「心に思う」という意味です。本文で一念とは「信楽開発の時剋の極促を顕す」とありますのは、前者の「短い時間」の意味で言われており、「広大難思の慶心を彰す」と言われるのは後者の意味です。さて「時剋の極促」ですが、これは「ときのきはまり」(『一念多念文意』)ということで、信楽開発の時剋の極促」とは信心がわれらに開け発(おこ)る、その「ときのきはまり」を意味します。しかしこの「ときのきはまり」は、普通の時間のなかのある瞬間ということではないでしょう。親鸞は信楽開発の時剋の極促」という印象的なことばで何か特別なことを伝えようとしていたのに違いありませんが、それはいったい何でしょう。

先回の終わりのところでこう言いました、永遠の本願は信心の「いま」はじまると。本願は永遠なるものですが(本願とは「無量のいのち」の「ねがい」ですから永遠なるものです)、しかしそれはわれらひとり一人の信心としてしか存在しませんから(一人ひとりの信心を離れてどこかに存在するものではありませんから)、われらひとり一人の信心のはじまる「いま」、本願もまたはじまると言わなければなりません。「信楽開発の時剋の極促」とはその「いま」であり、永遠の本願が「いま」はじまるのです。


タグ:親鸞を読む
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