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証明ということ [『ふりむけば他力』(その22)]

(6)証明ということ

 「知る」ことには証明が不可欠ですが、では「気づく」ことはどうでしょう。これまた思い出すことがあります。
 高校の社会科教師たちの研修会で親鸞の思想について語ったときのことです。「本願力に遇う」(天親の『浄土論』に「仏の本願力を観ずるに、遇ひて空しく過ぐるものなし」とあります)とはどういうことかをさまざまに語るなかで、ぼく自身のささやかな経験をお話しました。ある日、生きることに欝々とした思いを抱えながら家の近くの農道を散歩していましたところ、向うから見知らぬ老夫婦が歩いてこられました。ご主人は足が悪いようで杖をついておられ、それを横から奥さんがそっと支えながら散歩されているのです。で、すれ違いざまにお二人が「こんにちは」と挨拶してくださったのですが、そのとき、それがぼくの耳には「そのまま生きていていいんだよ」と聞こえ、その瞬間、何か温かいものが身体のなかを流れたのです。そして、ああ、これが「本願力に遇う」ということなのかという思いが生まれました。
 その研修会でそんな話をひとしきりしたあと質問の時間となり、ある方がこう言われたのです、「そのまま生きていていいと聞こえたということですが、それは幻聴ではないかと言われたらどう答えられますか」と。そのときは突然のことでうまく対応できませんでしたが、よくよく考えてみますと、ここには「知る」ことと「気づく」ことの鮮やかなコントラストがあります。もしぼくが「そのまま生きていていいという声をとらえた」と言ったとしますと、それは幻聴と言わなければなりません。他の人には「こんにちは」としか聞こえないのですから。ぼくの耳がとらえたのも「こんにちは」という声ですから、決して幻聴を聞いたのではありません。ところがその「こんにちは」を通して「そのまま生きていていい」という声が聞こえたのです。
 ぼくが「そのまま生きていていい」という声をとらえたのではありません、逆に「そのまま生きていていい」という声がぼくをとらえたのです。ぼくはその声にゲットされたのです。もしぼくが「そのまま生きていていい」という声をとらえたと主張するなら、誰でもその声をとらえられることを証明しなければなりません。そうでなければただの幻聴ということになります。でもぼくは「そのまま生きていていい」という声にとらえられたのだとしますと、そのことに証明は必要でしょうか。いえ、それにとらえられたことがそれの唯一無二の証明であり、ぼくにはそれ以上の証明はまったく必要ありません。

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