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そもそも浄土とは [「信巻を読む(2)」その60]

(2)そもそも浄土とは

「お浄土に参れるのでしょうか」と問うお婆さんにとって浄土は「死んでから往くところ」ですが、さて浄土とはこことは別のどこかにある世界でしょうか、そしてそこへは死んでから往くのでしょうか。善導の書くものを読む限り、どう見ても浄土は死んでから往くところとしか思えません。この少し先に引用されるところでも「命を捨ててすなはち諸仏の家に入らん、すなはち浄土これなり」と出てきます。しかしその一方で善導は「浄土対面してあひ忤はず」と言いますし、先には「欣へばすなはち浄土につねに居せり」ともありましたが、これらは「もうすでに浄土に居るではないか」と言っているようにも聞こえます。浄土は「これから」往くところでしょうか、それとも「もうすでに」居るところでしょうか。

親鸞に聞いてみましょう。『一念多念文意』で第十八願成就文の「即得往生(すなはち往生を得)」についてこう述べています、「〈即得往生〉といふは、〈即〉はすなはちといふ、ときをへず、日をもへだてぬなり。また〈即〉はつくといふ。その位に定まりつくといふことばなり。〈得〉はうべきことをえたりといふ。真実信心をうれば、すなはち無礙光仏の御こころのうちに摂取して捨てたまはざるなり。摂はをさめたまふ、取はむかへとると申すなり。をさめとりたまふとき、すなはち、とき・日をもへだてず、正定聚の位につき定まるを〈往生を得〉とはのたまへるなり」と。これで見ますと、往生とは正定聚の位、すなわち必ず仏になることが定まる位につくことを意味し、それは信心を得たその時であることが分かります。

もう一つ上げますと、親鸞が関東の弟子衆に宛てた手紙にこうあります、「真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり」(「御消息集」第1通)と。これまた信心とは摂取不捨されることであり、そのとき正定聚の位につくが、それが往生に他ならないとはっきり述べています。これらを見る限り、浄土へ往生するとは、ここではないどこかに往くことではなく、弥陀の心光に摂取され正定聚の境位につくことを意味しているのが明らかです。としますと、浄土とは弥陀の心光に摂取され正定聚となった人が「いますでに」住んでいる世界であるということになります。


タグ:親鸞を読む
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