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歴史と宿業 [『歎異抄』を聞く(その111)]

(11)歴史と宿業

 前に高村光太郎の「天皇あやうし」(「真珠湾の日」)について考えました(第7回-11、第8回-5)。あの詩を書いたときの光太郎は歴史に身をゆだね、それと一体化しています。そして身をすてて「陛下をまもろう」としています。これは一見、宿業に気づき、己れのはからいをすてて本願招喚の勅命にすべてをゆだねる他力の生き方とそっくりです。しかし、実はまったく似て非なるものであることは、前にもふれましたように、己れの身をゆだねるべき歴史が民族のうるわしい歴史として聖化されているということからはっきりします。
 ドロドロした醜いところはすべて捨象され、うるわしいところだけに純化された美しい日本であるということ、ここに光太郎がいっときその魔力に引き込まれた歴史的ロマン主義の秘密があります。
 民族の歴史と一体化することには恍惚があります。聖なる歴史と一体化することで卑小な自分自身が聖化される喜びを感じるのです。一方、宿業のなかにある自分を自覚することには恍惚はありません。そこにはむしろ悲しみがあります。慶州の仏国寺で感じた悲しみ。秀吉のしたことは秀吉の罪であって自分には関係ないとしてしまえず、そこに自分の罪を感じてしまう。そしてそういう罪の歴史のなかに自分は生きていると感じる。これが宿業の感覚です。
 そして、もういちど確認しておきたいのですが、この宿業の気づきを通じて、はじめて本願というものに出あうのです。それ以外に本願に出あう道はありません。そして本願に遇うことは、歓喜踊躍の経験です。宿業の悲しみが大きい分、本願の喜びも大きい。でもそれは恍惚ではありません。本願に遇う喜びには、宿業の気づきという重しがついていますから、糸の切れた風船のように舞い上がることはありません。悲しみを湛えた喜びです。

タグ:親鸞を読む
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