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信じれば救われる [「親鸞とともに」その86]

(10)信じれば救われる

キリスト教なら「イエス=キリストを信じなさい、それすれば救われるのですよ」と言われ、浄土教なら「弥陀の本願を信じなさい、そのことで救われますよ」と言われます。ぼくのような天の邪鬼はこのようなことばに接しますと、「いや、お断りします。たとえ信じることによって救われるとしましても、ぼくは結構です」と言いたくなります。なぜか。そこには何か押しつけがましさがあるからです、救いを押し売りするような気配が感じられるからです。

いや、もっと根本的に、これらのことばは「信じる」ことを「救われる」ことの条件としています。イエス=キリストや弥陀の本願を「信じる」ことが条件となって、「救われる」という結果が得られるという構図です。しかし「信じる」ことと「救われる」ことは条件=結果の関係ではありません。もしそのような関係でしたら、その救いは条件付きとなり、信じる人の集合と信じない人の集合が分断されて、信じる人の集合だけが救いに与れることになります。ここに宗教の排他性の根源があります。

そして「信じる」ことが「救われる」ことの条件だとしますと、詰まるところ、救いはみずから手に入れるものになります。「信じる」という決断をすることで、救いをゲットするのですから。これは、少なくとも本願の信心ではありません。これまで縷々述べてきましたように、本願の信心はわれら「に」おこりますが、われら「が」おこすことはできず、それは本願そのものがおこすものです。浄土真宗で「たまわりたる信心」と言われるのはこのことです。

としますと、「信じれば救われる」のではありません、「信じることが救われていること」です。信じることによって「これから」救いが与えられるのではありません、信じていること自体が「もうすでに」救いなのです。本願を信じるとは、「わたしのいのち」が「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」に生かされていることに気づくことですが、それが救いそのものです。そしてそう気づいた(信じた)とき、「ほとけのいのち」に生かされるようになったのではなく、もうとうの昔から生かされていたのです。

(第8回 信じるということ 完)


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