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宿縁と他力 [はじめての『高僧和讃』(その205)]

(8)宿縁と他力

 すべては宿縁によるという思想がまとめて説かれているのが『歎異抄』第13章です。「よきこころのをこるも、宿善のもよほすゆへなり。悪事のおもはせらるるも、悪業のはからふゆへなり。故聖人のおほせには、卯毛羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずといふことなしとしるべしとさふらひき」。この後に「たとえばひとを千人ころしてんや」という有名な問答が続くこともあるからでしょう、宿縁といいますと、どうしても悪と結びつけられるのですが、善きこともまた宿縁によります。善悪にかかわらず、あらゆることが宿縁によるというのが親鸞の根本思想です。
 そしてこの思想のおおもとが釈迦の縁起であることは言うまでもありません。何ものもそれ自体としてあるものはなく、他のものに縁ってあるということ、これが縁起です。この縁起を「われ」にあてはめますと無我となります。ぼくらはともすると「われ」は「それ自体としてあるもの」と思ってしまいます。「われ」があらゆることの原点であり、他のすべてがそこに依存していると。デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」はそれを哲学的に表明したものに他なりません。
 しかし釈迦は「われ」もまた他に縁ってあるのであり、それ自体としてあるのではないと言います。自分の人生は自分がデザインしてきたと思っているとすると大変な思い違いであり、わが人生のよきこともあしきこともみな他に縁ってそうなってきたのだ、ということです。「われ」は決定的に遅れてきた存在です、気づいたときにはもうここにいたのですから。これが親鸞の宿縁の思想につながっているのは見やすい道理でしょう。そしてこの宿縁の思想は他力思想に他なりません。自分の人生は自分でデザインしてきたというのが自力思想であるのに対して、よきこともあしきこともみな宿縁によるというのが他力思想です。

タグ:親鸞を読む
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