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弥陀と釈迦 [「信巻を読む(2)」その49]

(3)弥陀と釈迦

弥陀の「ねがい」(本願)は釈迦・諸仏の「こえ」(名号)として一切衆生に届けられると述べてきましたが、ここで疑問が生まれるかもしれません。弥陀はその「ねがい」をどうしてみずから「こえ」として衆生に届けないのだろうか、なぜ釈迦・諸仏の「こえ」が必要となるのだろうかということです。この疑問に答えるためには、そもそも阿弥陀仏とは何かということからはじめる必要があります。阿弥陀仏とは「無量(アミタ)のいのち」であり、われら「有量(ミタ)のいのち」とは次元の異なる存在です。「無量のいのち」と「有量のいのち」の関係はどうなっているかと言いますと、こちらに「有量のいのち」があり、あちらに「無量のいのち」があるのではありません。もし「有量のいのち」とは別のどこかに「無量のいのち」があるとしますと、その「無量のいのち」はもう無量とは言えません(無量には外部がありません)。

としますと「無量のいのち」(永遠なるもの)はあらゆる「有量のいのち」(時間的なるもの)をその中に包摂しているということで、両者はその存在の次元を異にしています。したがって「無量のいのち」がみずから直接「有量のいのち」に「こえ」をかけることはできません。直接呼びかけるには、呼びかけるものと呼びかけられるものが同じ次元にいなければならないからです。かくして阿弥陀仏はその「ねがい」をみずからの「こえ」として届けることはできず、それは十方世界にいる諸仏の発する「こえ」となってはじめて届けられることになります。われらとしては弥陀の「ねがい」に釈迦の「こえ」を通してはじめて接することができるのです。

さて最後の一文「この信行によりてかならず大涅槃を超証すべきがゆゑに、真の仏弟子といふ」です。「この信行」を得たということは、弥陀の「ねがい」が釈迦の「こえ」として確かにわが身に届いたということですが、そのことにより「かならず大涅槃を超証すべき」と言われます。この「かならず…すべき」という言い方は、大涅槃を超証するのは未来のことであるということを意味していますが、このように未来のことを「かならず」と言えるのは、その証が「いまここ」にあるからです。そして大事なのは、未来に大涅槃を超証することではなく、いますでにその証がこの身に現われていることです。


タグ:親鸞を読む
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