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還相の回向ととくことは [親鸞の和讃に親しむ(その53)]

(3)還相の回向ととくことは

還相の回向ととくことは 利他教化の果をえしめ すなはち諸有(しょう)に回入(えにゅう)して 普賢(ふげん)の徳を修するなり(第36首)

還相回向ということは、衆生利益のためにとて、ただちに娑婆に戻り来て、普賢の徳を示すこと

さて次に還相回向です。まずことばの意味ですが、「諸有」には左訓に「十方のよろづの衆生なり」とあり、「普賢の徳」には、「普賢といふは仏の慈悲の極まりなり」とあります。先の和讃で弥陀の回向には「悲願の信行をえしむ」往相回向があると詠われ、この和讃で弥陀の回向にはもう一つ、「利他教化の果をえしむ」還相回向があると詠われます。そして「利他教化」とは「十方のよろづの衆生」のなかに入り、慈悲のはたらきをするということです。これはどちらも弥陀の回向(たまもの)ですから、「悲願の信行」が与えられることと「利他教化の果」が与えられることはコインの表と裏のようにひとつであるということです。すでに述べましたように(1、第34首)、先ず往相、しかる後に還相ではなく、往相がそのままで還相です。

さてしかし往相がそのまま還相とは実際のところどういうことか。それを考えるためにもう一度「弥陀の方便ときいたり 悲願の信行えしむ」ことに戻りたいと思います。われらが悲願の信行を得ることができたということは、弥陀の方便によってそのような身へと育てられたということです。弥陀の悲願に遇うことができたということは、ただそれだけのことではなく、その人自身のありように変化が起こったということです。善導の「前念に命終して、後念に即生す(前念命終、後念即生)」もその意味に受けとることができます。悲願に遇うことにより、これまでの古い生が終わり、新しい生がはじまったというように。そしてこの新しい生においては、弥陀の悲願を自分の願として感じられるようになります。

弥陀の悲願に遇うことができますと、「わたしのいのち」が「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」と感じられるようになりますが、「わたしのいのち」としては悲願にたすけられつつ、同時に「ほとけのいのち」としては悲願をわが願いとして担うようになるのです。その二つが二つにして一つです。


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