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下品上生 [『観無量寿経』精読(その80)]

            第7回 南無阿弥陀仏と称せしむ

(1)下品上生

 これより下品に入ります。まず下品上生。

 仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「下品上生といふは、あるいは衆生ありて、もろもろの悪業を作らん。方等経典(ほうどうきょうてん、大乗経典)を誹謗せずといへども、かくのごときの愚人、多く衆悪を造りて慚愧あることなけん。命終らんとする時、善知識の、ために大乗十二部経の首題(経典の題名)名字を讃ずるに遇はん。かくのごときの諸経の名を聞くをもつてのゆゑに、千劫の極重の悪業を除却す。智者また教へて、合掌叉手(しゃしゅ。両手の指を組み合わせる)して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、五十億劫の生死の罪を除く。その時かの仏、すなはち化仏・化観世音・化大勢至を遣はして行者の前に至らしめ、讃めてのたまはく、善男子、なんぢ仏名を称するがゆゑにもろもろの罪消滅す。われ来りてなんぢを迎ふと。この語をなしをはりて、行者すなはち化仏の光明の、その室に遍満せるを見たてまつる。見をはりて歓喜してすなはち命終る。宝蓮華に乗じ、化仏の後(しりえ)に随ひて宝地のなかに生ず。七七日(49日)を経て蓮華すなはち敷(ひら)く。華の敷くる時に当りて、大悲観世音菩薩および大勢至、大光明を放ちてその人の前に住して、ために甚深の十二部経を説きたまふ。聞きをはりて信解(しんげ)して、無上道心を発(おこ)す。十小劫を経て百法明門(ひゃっぽうみょうもん、菩薩が初地において得る法門)を具し、初地に入ることを得。これを下品上生のものと名づく。仏名・法名を聞き、および僧名を聞くことを得。三宝の名(みな)を聞きて、すなはち往生を得」と。

 ここでもう一度「かの国に生ぜんと欲はんものは、まさに三福を修すべし」ということばを思い出しましょう。そして上品と中品のものはこの三福を修して往生すると説かれてきたのでした(上品は行福、中品上生・中生は戒福、中品下生は世福)。ところが、これから論じられる下品のものは、定善はもとより、散善の三福も修めることのできない悪人です。これまでの教説からすれば、このような悪人は往生できないということになりそうですが、あにはからんや、命終らんとする時、善知識の勧めで南無阿弥陀仏と称えることによりこれまでの悪が除かれ往生できると説かれます。さてこれをどう理解すればいいのでしょう。

タグ:親鸞を読む
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