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横超 [「『証巻』を読む」その51]

(10)横超

第二十二願の意味についてはすでに詳しく検討しましたので(第4回、6)、ここではおきますが、曇鸞が注目していますのは、最後の「常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん」という文言です。これは、浄土に往生できたものは、菩薩としての普通のありよう(常倫)を超えて、初地から十地までを一気に跳び越え(諸地の行現前)、衆生教化の還相のはたらき(普賢の徳)をすることができるということです。曇鸞はそれを説明するのに好堅という樹は一日に百丈伸びるということや、釈迦は一度の説法で悟りを開かせたり、夜明けから朝食までの間に無生忍に至らせたりすることができたことを持ち出します。そんなことを聞いても人は信じようとしないが、それは「非常の言は、常人の耳に入ら」ないということだと言います。

五十二階位の菩薩道というのは自力の発想です。ある目標をめざして一歩一歩着実に歩んでいく。そうすることではるか彼方と思われていたことも、いつしか成し遂げることができるということです。これが常倫のありようで、そこからすれば弥陀の本願力に乗じて諸地の行を一気に跳び越えるなどというのは「常人の耳に入ら」ないのは当然でしょう。そんなことがあるはずがないと思ってしまう。親鸞はこの「常倫に超出」することを「横超」と表現します。『大経』に「安養国に往生して、横に五悪趣(地獄・餓鬼・畜生・人・天)を截(き)り、悪趣自然に閉じん」とありますが、それを注釈してこう言います、「横はよこさまといふ、よこさまといふは如来の願力を信ずるがゆゑに行者のはからひにあらず、五悪趣を自然にたちすて四生(胎生・卵生・湿生・化生)をはなるるを横といふ、他力と申すなり。これを横超といふなり」(『尊号真像銘文』)と。

竪に一歩一歩進むのが自力ですが、横に一気に跳び越えるのが他力ということです。横に跳び越えるといっても自分のはからいでそうするのではありません(それでは自力になります)、あるときふと、もうすでに跳び越えていることに気づくのです。横超が「自分に」起っているのは確かですが、「自分が」起こしたのではありません、如来の本願力が起こしているのです。

(第5回 完)


タグ:親鸞を読む
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