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『教行信証』「信巻」を読む(その42) ブログトップ

『観経疏』 [『教行信証』「信巻」を読む(その42)]

第5回 至誠心とは


 (1) 『観経疏』


  曇鸞に次いで善導からの引用です。まずは『観経疏』より。


光明寺の『観経義』(観経疏のこと)にのたまはく、「〈如意〉といふは二種あり。一には衆生の意のごとし、かの心念に随ひてみなこれを度すべし。二には弥陀の意のごとし。五眼(肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼)円かに照らし、六通(天眼通、天耳通、他心通、宿命通、神足通、漏尽通)自在にして、機の度すべきものを観そなはして、一念のうちに前なく後なく身心等しく赴き、三輪(神通輪、教誡輪、記心輪)開悟して、おのおの益すること同じからざるなり」と。以上


またいはく、「この五濁(劫濁・衆生濁・見濁・煩悩濁・命濁)・五苦(生老病死の四苦と愛別離苦)等は、六道に通じて受けていまだなきものはあらず。つねにこれに逼悩(ひつのう、せめられ悩む)す。もしこの苦を受けざるものは、すなはち凡数の摂(ぼんじゅのしょう、凡夫の仲間)にあらざるなり」と。抄出


善導の『観経疏』は「行巻」でも少しばかり引かれていましたが、「信巻」において本格的に引用されます。この書は名のごとく『観経』の注釈書で、善導の主著と言うべきものです(善導にはその他に『往生礼讃』、『般舟讃』、『法事讃』、『観念法門』という著作があり、「行巻」では『往生礼讃』を中心に引用されていました)。『観経疏』は「玄義分」・「序分義」・「定善義」・「散善義」の四巻から構成され、最初の「玄義分」で『観経』の要義を上げたのち、以下、『経』の「序分」、「定善十三観」、「散善三観」を順に注釈していきます。


前半の文は「定善義」からで、「定善十三観」の最後のところに「阿弥陀仏は、神通如意にして、十方の国において、変現自在なり」とあるなかの「如意」という文言について注釈しています。阿弥陀仏は衆生の心のうちを見通し、思い通りに自在に済度する力があるということです。そして後半の文は「序分義」からで、「序分」の最後で韋提希が「もし仏滅後のもろもろの衆生等、濁悪不善にして五苦に逼(せ)められん。いかんしてか、まさに阿弥陀仏の極楽世界を見たてまつるべき」と釈尊に問う文を注釈しており、凡夫というものはみな五濁・五苦のなかにあるもので、そのような凡夫のためにこそ弥陀の本願はあるのだと述べているのです。



タグ:親鸞を読む
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