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『歎異抄』を読む(その166) ブログトップ

10月29日(月) [『歎異抄』を読む(その166)]

 真宗の教義では、来生に仏となることを「難思議往生」といいます。われわれの考えの及ばない不可思議な往生という意味です。それに対して、来生に仏となると聞かせてもらった時直ちに「あゝ有難い」と身も心も軽くなり、その結果苦しみが和らぐことを「即得往生」とよびます。今生において信心が定まったその時直ちにという意味で「即得」と言うのです。第14章で「現生正定聚」と言いましたのと同じことです。
 こんなふうに真宗では今生において「即得往生」、来生において「難思議往生」と説きます。これは親鸞の浄土思想の一番大きな特徴だとされ、「何もかも来生で」とされてきた伝統的な浄土思想に対して「今生での救い」をはっきり打ち出した訳ですが、しかしまだ「来生での救い」が残っていますから、そこのところで引っかかる人がいるかもしれません。鎌倉期の人たちならいざ知らず、科学的な世界観になじんだ現代人たちは来生とか浄土ということばの前で立ち止まってしまうと思われます。
 科学的な見方からしますと、死ぬということは「無に帰す」ことで、死んでから後の世界なんてとんでもなく非科学的な発想に見えるでしょう。そこでこんなふうに考えてみたらどうでしょう。「来生」というのは「今生」の見えない本質を死んでから後の世界に投影しているのだと。そもそも未来というのは、どこかに「現にある」のではありません。「現にある」のは、その文字が示しますように現在だけです。過去は、あることを「想起する」というあり様でしかありませんし、未来は、あることを「予期する」というあり様でしかありません。そして想起するのも、予期するのも、現在です。

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