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たまたま [『歎異抄』ふたたび(その57)]

(4)たまたま

 「たまたま」ということばに含まれているものはそうとう深いものがあるといわなければなりません。
 まず思いますのは、このことばはこの世を軽やかに生きさせてくれるということです。ぼくらはともすると自分が置かれている状況に押しつぶされそうに感じることがありますが、そんなときこの「たまたま」は魔法のことばのように身も心も軽くさせてくれます。たとえばいま韓国との間がギクシャクして、日々のニュースに心が暗くなりますが、そんなとき、「ぼくはたまたま日本人として生まれ、彼らはたまたま韓国人として生まれただけで、ひょっとしたらぼくが韓国人に生まれていたかもしれない」と思うだけで、やれ日本だ、やれ韓国だと角突きあっているのがバカらしくなります。
 そして「たまたま」ということばには、「みんなひとつ」ということが含意されています。ぼくはたまたまぼくであり、この犬はたまたまこの犬であるということは、ぼくとこの犬は所詮ひとつであるということに他なりません。また、ぼくはたまたま日本人であり、彼らはたまたま韓国人であるということは、ぼくと彼らはもともとひとつであるということです。もともとひとつであるのだが、たまたまぼくは日本人に生まれ、たまたま彼らは韓国人として生まれただけで、だからもし逆になっていたとしても何の不思議もないということです。
 これが「一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり」ということですが、さてしかし話はこれで終わるわけではありません。「たまたま」の裏には、一見その真反対と思われる「そうなるべくして」が貼りついているのです。ぼくはたまたまぼくであり、この犬はたまたまこの犬ですが、しかし同時に、ぼくはそうなるべくしてぼくとなり、この犬はそうなるべくしてこの犬となったのです。ぼくが日本人に生まれ、彼らが韓国人に生まれたのにはそうなるべくしてそうなった因縁があるのです。

タグ:親鸞を読む
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