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追善供養 [『歎異抄』を聞く(その55)]

(2)追善供養

 念仏よりほかに慈悲の行いをすることはない、という第4章も人を驚かせるものでしたが、ここにきて死者への追善供養も必要ないと言われますと、驚きを通り越して不審の念を抱かせるのではないでしょうか。ぼくらが仏事として真っ先に頭に浮べるのが死者への追善供養だからです。あるお坊さんがお寺の講話で親鸞のこのことばを取り上げたところ、次からお寺にくる人の数が目に見えて少なくなったという話を聞いたことがありますが、さもありなんと思います。
 さて、父母の追善供養として念仏をしたことはないのは何故か。その理由として上げられるのが「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」ということですが、これはどういうことでしょう。
 亡くなった父母の追善供養と言いますと、言うまでもなく、自分が自分の亡き父母のために供養をするということですが、親鸞が言おうとしているのは、どうして自分の父母だけ(祖父母も兄弟もかもしれませんが、とにかく血のつながったものだけ)を供養するのか、「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟」ではないか、ということです。直接の血のつながりはなくても、生きとし生けるものはみなひとつにつながっているではないか、ということ。
 「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟」ということばで思い浮かぶのは輪廻転生でしょう。これまで何度となくいろいろな姿に生まれ変わり死に変わりしてきた中で、どの生きものとどんなつながりにあったか分からないから、生きとし生けるものはみんな父母兄弟のようなものではないか、という理解です。しかしなにも輪廻転生という思想を前提としなくても、「いのち」がこれまでたどってきた歴史を振り返ってみますと、「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟」であることを素直に頷くことができます。
 すべてのいのちは一本の大きな「いのちの樹」のなかにおさまります。

タグ:親鸞を読む
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