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行くことは帰ること [はじめての『高僧和讃』(その48)]

(6)行くことは帰ること

 行く(往く)ことは、そのなかにすでに帰る(還る)ことが含まれています。家を出るとき「いってきます」と言いますと、「おはようおかえり」と送り出してくれます(これは関西だけで、一般的には「いっていらっしゃい」ですが)。このやり取りは、行くことは取りも直さず帰ることであることをはっきり示しています。行ってから帰るのではなく、行くことがもうすでに帰ることであるということです。そうだろうか、家から学校に行くとき、まずは学校に行き、しかる後に家に帰ってくるのだから、学校に行くことがそのまま家に帰ることだとは言えないよ、という反論が予想されます。
 しかしたとえば、「これから北海道の旅に行ってきます」というのは、北海道に行きっぱなしではなく、また家に帰ってくるということですから、行くことのなかにすでに帰ることが入っています。実際、行く道中ですでに帰りの飛行機のことを考えているでしょう。北海道に行きっぱなしで帰ってこないなら、それは旅ではありません(ぼくの頭には出征兵士の姿が浮かんでいます)。さて、生きることも旅だとしますと、もとのところに帰ることが最初から含まれています。もとのところが「ほとけのいのち」だとしますと、旅の終わりも「ほとけのいのち」で、「ほとけのいのち」からこの世に旅立つことが、そのまま「ほとけのいのち」へ帰ることに他ならないのです。
 道教の不老長生は「わたしのいのち」をできるだけ長くすることですが、往生浄土は「わたしのいのち」がそのふるさとである「ほとけのいのち」へと帰っていくことです。もうひとつ言えば、「わたしのいのち」が「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」であるということです。往生浄土の旅はいのち終わってから始まるのではありません、この世に生まれてきたときにもう始まっているのです。いや、曠劫よりこのかたずっと続いているのです。往生浄土はどんな不老長生よりまさるというのはそういうことです。

タグ:親鸞を読む
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