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三心一心問答のはじまり [『教行信証』「信巻」を読む(その90)]

(7)三心一心問答のはじまり


「もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし」と締めくくられましたが、そのあと「信巻」の目玉ともいうべき「三心一心問答」がはじまります。


問ふ。如来の本願(第十八願)すでに至心・信楽・欲生の誓を発(おこ)したまへり。なにをもつてのゆゑに論主(天親)「一心」といふや。


答ふ。愚鈍の衆生、解了(げりょう)易からしめんがために、弥陀如来、三心を発したまふといへども、涅槃の真因はただ信心をもつてす。このゆゑに論主、三を合して一とせるか。


唐突の感は否めません。いきなり、第十八願に至心と信楽と欲生という「三心」が誓われているのに、どうして天親は『浄土論』で「一心」を説くのだろうかという問いが提起されます。これはいったい何を問題にしているのだろうと思いますが、ふり返ってみますと「信巻」の序でこう言われていました、「広く三経の光沢を蒙りて、ことに一心の華文を開く。しばらく疑問を至してつひに明証を出す」と。そうか、あそこで予告されていたことがこれからはじまるのかと了解できますが、さてしかしそれにしても親鸞は何を問うているのだろうと思わざるをえません。


まず感じますのは、親鸞は天親の「一心」ということばに深く引きつけられているようだということです。すなわち信心の本質は「一心」にあるという啓示のようなものを受けていたのではないかと思われるのです。これまでのところでは「如来回向の信心」という点に焦点があてられてきました。信心はわれらが「自力のこころ」で得るものではなく、「如来から賜る」ものであるということですが、それが「一心としての信心」という見方へと移行するということです。もちろん「如来回向の信心」と「一心としての信心」とは別のことではなく、真実の信心を別の角度から見ることにより、新しい視界が開けてくるということです。



タグ:親鸞を読む
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