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因と果 [『教行信証』「信巻」を読む(その89)]

(6)因と果


この文では弥陀の願心を因、われらの信心を果と表現していますが、この言い回しから、どこかにある弥陀の願心が因となって、われらの信心を果として引き起こしていると受けとるべきではありません。弥陀の願心という因と、われらの信心という果は別々にあるのではなく、一体不離であるということ、これが仏教の因果です。われらは因と果と言われますと、すぐさまそれを普通の原因と結果に置き換える習性がついていますから、因と果はそれぞれ別々にあるものだと思い込むのですが、仏教の因果は原因・結果の概念とは似て非なるものであることをあらためて確認しておかなければなりません。


原因と結果の概念では、両者は時間的に切り離されています。ある時に原因Aがあり、それが別の時に結果Bを生みだします。ABは時間的に隣接しているのが普通ですが、しかしABはあくまで別々に存在するものです。ある時にコロナウイルスが存在し、それが別の時に肺炎を引き起こします。原因であるコロナウイルスと結果である肺炎はまったく別ものです。そしてそこからおのずから出てくることとして、原因と結果は不可逆的な関係にあります。原因があることにより結果があるのであって、結果があることにより原因があるとは決して言えません。コロナウイルスがあるから肺炎がおこるのであり、肺炎がおこるからコロナウイルスが生じるとは言えません。


一方、仏教の因果(これは縁起に他なりませんが)では、両者は時間的に一体不離です。これは「これあるに縁りてかれあり」と表現されますが、「これ」と「かれ」は「ひとつ」ですから、この関係は同時に「かれあるに縁りてこれあり」ということでもあります。弥陀の願心とわれらの信心はまさにこの関係で、「弥陀の願心あるに縁りてわれらの信心あり」と言えると同時に、「われらの信心あるに縁りて弥陀の願心あり」となります。弥陀の願心があるからわれらの信心があるのは言うまでもありませんが、と同時に、われらの信心があるから弥陀の願心があります。もしわれらの信心がなければ、弥陀の願心はどこにもありません。その意味で、弥陀の願心はわれらの信心によってはじめて成就するのです。



タグ:親鸞を読む
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