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般若と方便 [「『証巻』を読む」その100]

(7)般若と方便

般若(智慧)とは「すべては一つにつながりあっている」と見る無分別智であり、方便とは「すべてはそれぞれに差別の相にある」と見る分別知です。先の重々無尽の網の譬えでいいますと、般若(智慧)は「すべては一つの網としてつながりあっている」と見ることで、方便は「それぞれの結び目は一つひとつみな別である」と見ることです。そして大事なことはこの両者は互いに他をまってはじめて完結するということであり、それがここでは「智慧と方便と、あひ縁じて動(どう)じ、あひ縁じて静(じょう)なり。動、静を失せざることは智慧の功なり。静、動を廃せざることは方便の力なり」と言われています。そのことに思いを潜めたい。

ふたたび「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」の対を持ち出しますと、「わたしのいのち」は「すべてはそれぞれに差別の相にある」とする分別知をもって生きていますが、「ほとけのいのち」とは「すべては一つにつながりあっている」とする無分別智そのものです。そして繰り返し述べてきましたように、「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」です。「わたしのいのち」を一生懸命生きながら、同時に「ほとけのいのち」に生かされていますし、分別して生きながら、同時に無分別智に生かされているのです。

これはしかし「ほとけのいのち」に遇うことができてはじめて言えることで、それまではただひたすら「わたしのいのち」を生きています。他のすべてのいのちとの縦横無尽のつながり(これが「ほとけのいのち」です)に生かされているなどとは思いもよらず、この唯一無二の「わたしのいのち」を如何に生き永らえるか、どのようにして他のいのちよりも輝いて生きるかに血道を上げています。このように「わたしのいのち」を他のいのちよりも優位に置こうとした果てに、「欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(一念多念文意)ということになります。


タグ:親鸞を読む
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