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「親鸞とともに」その64 ブログトップ

たまたま [「親鸞とともに」その64]

(7)たまたま

「四海のうちみな兄弟」であるところでは劣等感=優越感は無縁であると言いましたが、それはどうしてかをもう一歩踏み込んで考えてみたいと思います。優秀な頭脳の兄と知的障害の弟は同じ父母から生まれたのですから、その兄と弟がそっくり入れ替わって、兄に知的障害があり、弟は優秀な頭脳をもっていたとしても何の不思議もありません。たまたま兄は優秀な頭脳をもち、弟は知的障害をもって生まれただけのことです。したがって兄は弟に優越感を懐く理由はなく、また弟は兄に劣等感を懐く理由もありません。たまたま兄は優秀な頭脳をもち、たまたま弟は知的障害をもっているだけのことで、それ以上どうこういうことはありません。

ここに「たまたま」の問題が再び顔を出しました。以前、この問題についていろいろ考えましたが、いま一度このことに思いを潜めてみたいと思います。

すべてがひとつにつながっていることから、そのなかのAAであり、BBであるのは「たまたま」であることが出てきます。つまり、ひとつにつながりあっているのですから、ABであり、BAであっても、ABの位置が入れ替わっただけで、つながりの総体としては何の支障もないということです。もしAAとして自立し、BBとして自立していて両者につながりがないとしますと、ABであり、BAであるのはカフカの小説の世界だけのことで、想像するだけで「とんでもないこと」ですが、しかしABがひとつの大きなつながりのなかにあるとしますと、ABであり、BAであることは「いくらでもありうること」です。

ところで、すべてがつながっていることから、AAであり、BBであるのは必然であるという結論を出すこともできます。同じ両親から兄は優秀な頭脳をもって生まれ、弟は知的障害をもって生まれたのですが、そうなるにはそれぞれにそうなるべき必然性があったと見ることもできるということで、何ごとも「そうなるべくしてなったのだ」と言うのです。このように、あらゆることがつながりあっているという同一の前提から、一方では何ごとも「たまたま」(偶然)であると言い、他方では何ごとも「なるべくしてなる」(必然)と言う。これをどう考えればいいでしょうか。


タグ:親鸞を読む
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