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道光明朗超絶せり [親鸞の和讃に親しむ(その5)]

5.道光明朗超絶せり

道光明朗(みょうろう)超絶せり 清浄光仏とまうすなり ひとたび光照かぶるもの 業垢(ごっく、煩悩の垢)をのぞき解脱をう(第9首)

さとりのひかりほがらかに、清らなひかりのほとけとぞ。ひとたびひかりにてらされて、垢をのぞいてさとりをう

無量光・無辺光・無礙光・無対光・炎王光・清浄光・歓喜光・智慧光・不断光・難思光・無称光・超日月光の十二光仏が相次いで讃歎されていきますが、この和讃は清浄光仏を称えます。「道光」とは、道すなわちさとりの光で、これは太陽や月の光のように眼に見えるものではありませんが、しかしその不思議な光に照らされていると気づくのです。そして「ひとたび光照かぶる」と気づくだけで、「業垢」が除かれ「解脱」を得ると言われます。道光(さとりの光)をかぶることで解脱(さとり)を得るということ。さとりとは「わたし」に目覚めること(正確には、「わたし」に囚われていることに気づくこと)ですが、その目覚めはどうもがいても「わたし」からは起らず、さとりの光をかぶることではじめて起るということです。「わたし」への囚われに目覚めた人(よきひと)から放たれる不思議な光が「わたし」への囚われの目覚めをもたらしてくれるということです。

さてここで考えておきたいのは、「ひとたび光照かぶるもの」は「業垢」がのぞかれると詠われていることです。「業垢」とは煩悩のことですから、これをそのまま読みますと、「さとりの清らかな光」をかぶれば煩悩が消えてなくなるように思われます。しかし、この光は「わたし」への囚われ(我執すなわち煩悩)に気づかせてくれるのであって、その囚われをなくしてくれるわけではありません。としますと「業垢をのぞき」とはどういうことでしょう。一般に何かに囚われていると気づくことは、もうその囚われから抜け出ることです(マインドコントロールされていると気づいた人は、もうその囚われから脱出しています)。「わたし」への囚われもまた、それに気づくことはそれから抜け出ることですが(その意味では「業垢をのぞ」かれているのですが)、ただ、全面的に抜け出ることはかなわず、依然として「わたし」への囚われのなかにあります。

一方では囚われのなかにありながら、他方ではその囚われに気づいているということで、片足は囚われのなかにありながら、もう片足は囚われから抜けていると言えばいいでしょうか。


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