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世に曲事のおこり候ひし [親鸞の手紙を読む(その87)]

(3)世に曲事のおこり候ひし

 さて第7通の本文ですが、性信房から6月1日付けで「鎌倉にての御うたへ」が一段落した様子が書き送られ(先に検討しましたように、それと相前後して5月29日付けで親鸞から性信房に善鸞義絶の件が報告されたものと考えられます)、その性信房からの書状に親鸞が7月9日付けで返信していることが分かります。「鎌倉にての御うたへ」の内容が具体的に何であったかは定かではありませんが、親鸞のことばから、念仏者に対してさまざまな誹謗中傷がなされたのであろうと推測できます。そしてそうした混乱の震源として善鸞がいたことは間違いないでしょう。
 親鸞はこのような念仏者に対する「うたへ」は何も目新しいことではなく、「この身どものやうやうに申され候ひしことなり。こともあたらしき訴へにても候はず」と述べ(法然や親鸞が流罪にされた承元の法難を思い出していると思われます)、また、ことは「性信房ひとりの沙汰あるべきこと」ではなく、念仏者のみんなが訴えられているのだと指摘しています。さて、ここの文で意味の取りにくい箇所がふたつあります。ひとつは「母・姉・妹なんどやうやうに申さるることは、ふるごとにて候ふ」というところで、これは性信房の母・姉・妹までが性信房を悪く言っているということか、それとも性信房のせいで母・姉・妹までが悪く言われているということか、解釈の分かれるところでしょう。
 もうひとつは「念仏をとどめられ候ひしが、世に曲事のおこり候ひしかば」とあるのをどう理解するかということです。
 「念仏をとどめられ候ふ」とは、先に上げた承元の法難(1207年)をさし、「世に曲事のおこり候ふ」とは、承久の乱(1221年)をさしていると解するのが妥当でしょう。承久の乱は、後鳥羽上皇が時の執権・北条義時討伐の兵を挙げ、敗北するという世を揺るがした大事件で、その結果、後鳥羽上皇は隠岐、順徳上皇は佐渡、土御門上皇は土佐にそれぞれ流されます。一方、親鸞は『教行信証』の末尾で、承元の法難について、ときの後鳥羽上皇、土御門天皇の名を上げ、「主上臣下、法にそむき義に違し、いかりをなしうらみをむすぶ」と厳しく指弾しています。そこから考えますと、親鸞はこの二つの出来事に深いつながりを見ていると思われます。

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