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『正信偈』を読む(その105) ブログトップ

「他力による」とは [『正信偈』を読む(その105)]

(2)「他力による」とは

 『浄土論』は、どこからどう見ても、われらが往生するために、われらがどんな修行をしなければならないかを説いているとしか読めません。ところが曇鸞の『浄土論註』は、というより『浄土論註』を独自に読む親鸞は、「往還の回向は他力に由る」と言うのです。つまり、われらが修行して往生するのではなく、すべて如来から回向されるのだ、と。
 礼拝・讃嘆・作願・観察が往相で、回向が還相ですが、往相と還相のどちらも他力によるというのです。われらがいろいろ苦労し、その結果として往生させていただくというのでしたら分かりやすいのですが、何もかも如来がお膳立てしてくださるということです。そんなふうに言われますと、どうしてもそのまま飲み込めないものが咽喉元に引っかかります。
 「他力による」をどう理解したらいいのか。
 われらが修行して手に入れるのではなく、すべて如来から回向される(与えられると読みかえてください)というのはどういうことか。教・行・信・証のうち、教(本願)と証(往生)が如来から回向されるのはいいとしても、行(念仏)も信(信心)も如来から回向されるとなりますと、われらは一体何なのか。
 木偶の坊ということばが浮かびます。あるいはロボットでしょうか。ただ突っ立っているだけ、あるいは、プログラムのままに動くだけで、そこには「自分」というものがありません。「わたし」がこうするということが一切ない。「そんなの嫌だ!」とぼくらのなかのどこかが叫びます。
 ちょっと脇道にそれるかもしれませんが、「わたし」について考えてみましょう。「わたし」にまつわる謎こそ哲学の主要テーマのひとつです。


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