SSブログ
『教行信証』「信巻」を読む(その153) ブログトップ

あらゆる規準を超える [『教行信証』「信巻」を読む(その153)]

(12)あらゆる規準を超える

世の中にはさまざまな規準があり、その規準ではかる物差しがありますが、それは何のためかと言いますと、あらゆるものを分別するためです。「これはこれ、あれはあれ」と分別するために、さまざまな規準が必要となり、そのための物差しが用意されることになります。では何のために「これ」と「あれ」を分別する必要があるかと言いますと、他でもなく「わたしのいのち」として生きていくためです。「わたしのいのち」として生きるということ自体が、ものを分別するということに他なりません。アメーバというもっとも原始的ないのちも、あるものがいのちをつないでいく上で有益であるか有害であるかの分別ができなければ、たちまちいのちをなくしてしまうでしょう。

かくしてあらゆる規準、あらゆる物差しは「わたしのいのち」として生きていくために必要であることが明らかになりました。としますと、真実の信心はあらゆる規準、あらゆる物差しを超えているということは、それは「わたしのいのち」として生きていくことを超えたところにあるということになります。「わたしのいのち」として生きることを超えるとは、取りも直さず「ほとけのいのち」として生きることであり、真実の信心とは「ほとけのいのち」として生きることに他ならないということです。もちろん「わたしのいのち」として生きることをやめるわけではありませんから、さまざまな規準、さまざまな物差しを手放してしまうことはありません。ですが、同時に「ほとけのいのち」と生きますから、さまざまな規準、さまざまな物差しをもったままで、それらを超えて生きるのです。

そのことがここで「たとへば阿伽陀薬のよく一切の毒を滅するがごとし」と言われています。本願の信心はさまざまな規準、さまざまな物差しがもたらす害毒を消してくれるということです。そして最後にとどめを刺すように「如来誓願の薬は、よく智愚の毒を滅するなり」と言われます。愚が毒であるのはもちろん智もまた毒をもたらすことを鋭く指摘しているのです。「智か愚か」というのも、われらが「わたしのいのち」として生きていく上で必要としている規準に他ならず、これまた害毒のもとであるということです。

(第14回 完)

ここで一旦「『教行信証』「信巻」を読む」を中断し、「親鸞の和讃に親しむ」と題して『三帖和讃』を読んでまいりたいと思います。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『教行信証』「信巻」を読む(その153) ブログトップ