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善悪の凡夫人を憐愍(れんみん)せしむ [「『正信偈』ふたたび」その109]

(2)善悪の凡夫人を憐愍(れんみん)せしむ

第2句「善悪の凡夫人を憐愍せしむ」とは、その文字上では「法然聖人は善人も悪人も分け隔てなく哀れんでくださる」ということですが、道綽・善導の流れを汲む法然(そして親鸞)の真意から言えば、人はみなおしなべて悪凡夫であり、弥陀の本願は悪凡夫のためにあるということです。親鸞のことばとして伝えられている「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」(『歎異抄』第3章)は、実は法然にそのもとがあり、親鸞は「法然聖人からこんなふうにお聞きしました」と語っていたのが、いつしか親鸞自身のことばとして流布したようです。醍醐本『法然上人伝記』に収められている法話のなかにこのことばが法然のことばとして出てきます。

このことばを「悪人〈でも〉往生できる」という意味だととんでもない誤解をされる人がときどきいますが、そうではなく「悪人〈こそ〉往生できる」という意味です。「悪人でも往生できる」ということばは、みずからを善人と自認している人から発せられますが、「悪人こそ往生できる」は、みずからを、そして人はみなおしなべて悪人だと気づいている人のことばです。みずからを善人と自認している人とは「自力作善」の人であるのに対して、みずからを、そして人はみな悪人と気づいている人は「自力無功」を思い知っている人です。そして「自力作善」の人は本願他力から遠く、「自力無功」を思い知った人は本願他力のすぐそばにいます。かくして「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」ということになるのです。

さて第3句「真宗の教証を片州に興す」ですが、ここで「真宗」とありますのは、宗派の名としての「浄土真宗」でないのはもちろんで、浄土の「真実の宗(教え)」ということです。親鸞が真宗ということばをつかうときは例外なくこの意味であり、彼にはみずから新しい宗派としての浄土真宗を開こうなどという意思は毛頭ありませんでした。親鸞の生涯は、ただ法然のひらいた浄土の真宗を真っ当に受け継ぎ、それを多くの人たちに弘めていくという思い一つで貫かれています。


タグ:親鸞を読む
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