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十方微塵世界の [親鸞の和讃に親しむ(その27)]

(7)十方微塵世界の(これより弥陀経讃)

十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる(第82首)

どんな世界の果てまでも、念仏の人見つけては、逃げても追って摂取する。だから阿弥陀とお呼びする

ここで阿弥陀とは「アミターバ」すなわち「無量のひかり」ですが、この和讃を読むとき、いつも心に引っかかるのが「念仏の衆生」と「無量のひかり」の関係です。つまり一方では、弥陀の光明は「無量のひかり」ですから「念仏の衆生」だけでなく「一切の衆生」を照らしているはずですが、しかし同時に「無量のひかり」に「摂取不捨」されるのは「念仏の衆生」だけであるということ、これをどう理解するかということです。「無量のひかり」に照らされることと、それに「摂取不捨」されることの関係です。答えは『歎異抄』第1章が与えてくれます、「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」と。

「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつ」人、すなわち「念仏の衆生」とは「無量のひかり」に気づいた人です。「大悲ものうきことなくつねにわれを照らしたまへり(大悲無倦常照我)」(「正信偈」)と気づいた人が「すなはち摂取不捨の利益にあづかる」のです。「無量のひかり」は「ものうきことなくつねにわれを照らしたまふ」のですが、それに気づかなければどこにも存在しません。それに気づいてはじめて「摂取不捨の利益にあづけしめたまふ」のです。万有引力は、それに気づこうが気づくまいがわれらにはたらいていますが(だからこそ、われらは地球から落っこちることがありません)、弥陀の本願力というものは、それに気づかなければはたらかないのです。なぜか。

弥陀の本願とは「いのち、みな生きらるべし」という願いですが、誰かにかける願いというものは、それがどれほど強いものであっても、その誰かの心に届かなければ何の力にもならないのです。しかし誰かがそれに気づいたとき、それはただちに想像を超える大きな力を発揮します。


タグ:親鸞を読む
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