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実体ということ [『唯信鈔文意』を読む(その24)]

(10)実体ということ
 
 「こえ」や「ひかり」があれば、そこに「なにもの」かがいると思うのは、ただの発想というよりも、ぼくらが世界に向かって立つときの根本姿勢とでも言うべきものです。ひかりが見えたら、これは何のひかりかと考える、どこからくるのかと頭を廻らす。当たり前のことです。当たり前すぎて、それがどうしたというようなものです。
 以前、因果律についてこんなふうに言いました、どんな出来事にも原因があるということは、ぼくらが世界から学んだことではなく、逆にぼくらが世界にいわば押し付けているのだと。すべてに原因があるという眼鏡をかけて世界を見ているということです。
 同様に、何らかの働きがあれば、その働きをしている「なにものか」(実体)があるとするのも、ぼくらが経験から学んだというよりも、ぼくらが経験をするための前提条件となっているのではないでしょうか。つまりそのような眼鏡をかけて世界を見ていて、その眼鏡がないと世界にうまく適応していけないのではないか。
 何か「こえ」がすれば、その発信源がいるはずだと考える。「ひかり」が見えたら、その発光源があるはずだと考える。「こえ」が聞こえたり「ひかり」が見えるというのは、ある種の働きがあるということですが、そのときには必ずそうした働きをしている「なにものか」(実体)が存在するはずだと考える。
 それはぼくらがこの世界の中で生きていく上で採用している一種の戦術だということです。別に世界そのものがそのようになっているわけではなく、ぼくらが世界をそのように見ているということ。そのように見ることによって、首尾よくこの世界に適応している。
 さてでは、何らかの働きがあれば、そこには必ずその働きをしている「なにものか」がいると見ることで、どんなメリットがあるでしょう。


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