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往相と還相の回向 [「『証巻』を読む」その33]

(2)往相と還相の回向

それを考える前に、『教巻』の「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり、一つには往相、二つには還相なり」ということばの意味することをあらためて確認しておかなければなりません。まず回向ですが、これが如来の回向であることは、これまでのところで繰り返し説かれてきましたので、もういいでしょう。因としての行も信も、果としての証もみな如来の回向(たまもの)であるということです。問題は如来の回向に往相と還相があるということです。いま上げました因としての行と信、そして果としての証はみな往相の回向で、われらは信心と念仏という因をたまわり、正定聚という果をたまわるということですが、その往相の回向とは別に還相という回向があるというのです。

往相・還相ということばは曇鸞の『論註』に由来します。曇鸞は天親が『浄土論』で菩薩の行に「入と出」があると説いていることを「往と還」と言い替えているのです。天親はこう言います、「菩薩は入の四種の門をもつて自利の行成就す、知るべし。菩薩は出の第五門の回向をもつて利益他の行成就す、知るべし」と。このように「入」とはみずからが浄土に入ることで自利であり、「出」とは衆生を救うために浄土から出ることで利他をあらわしています。曇鸞はその「入」を浄土へ往くという意味で「往」、「出」を娑婆に還るということで「還」と言い替えているのです。このように天親・曇鸞は菩薩の行は浄土へ往く(入る)ことで終わるのではなく、そこから娑婆に還る(出る)ことではじめて完結すると見ているのです。

往相は自己が救われることですが、それで終わることはできず、衆生を救う還相をまってはじめて完結するということ、ここに大乗仏教の本質があります。縁起の教えによりますと、生きとし生けるものはみな縦横無尽につながりあって(縁において)存在しているのですから、自己の救いと衆生の救いは一体不離です。したがって、自己は救われたが他の衆生は救われていないということはありえず、衆生が救われてはじめて自己も救われるのです。それをもっともはっきりと示しているのが法蔵菩薩の誓願で、第十八願に「若不生者、不取正覚(もし生れざれば、正覚を取らじ)」とありますのは、一切衆生が救われなければ、わたしの救いもないということです。


タグ:親鸞を読む
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