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よしあしの文字をもしらぬ(結讃1) [親鸞の和讃に親しむ(その119)]

(9)よしあしの文字をもしらぬ(結讃1)

よしあしの文字をもしらぬひとはみは まことのこころなりけるを 善悪の字をしりがほは おおそらごとのかたちなり(第115首)

よしあしの文字すら知らぬ人はみな まことのこころある人で 善悪知るという人は おお嘘つきに違いない

いよいよ締めくくりの二首です。この和讃で「善悪の字しりがほは」と言っているのは、自分自身のことを指しているのだろうと思います。ここで親鸞は己の長い人生をふり返り、心の底から慚愧しているに違いありません。自分はこれまでいかにも何が善で何が悪かを知っているかのように人前で振る舞い、また自分でもそう思ってきたが、それは何という「おおそらごと」であろうかと。思い出されるのが、親鸞が弟子への手紙のなかで紹介している法然聖人のエピソードです。

「ものもおぼえぬあさましきひとのまゐりたるを御覧じては、『往生必定すべし』とて、笑ませたまひしを、みまゐらせ候ひき。文沙汰して(学問をして)、さかさかしき(賢そうな)ひとのまゐりたるをば、『往生はいかがあらんずらん』と、たしかにうけたまはりき」(『親鸞聖人御消息』第16通)と。これは親鸞が法然の草庵で過ごした若かりし頃の思い出ですが、自分もまた「文沙汰して、さかさかしき」人づらをしているのではないかと慚愧しているに違いありません。

思えばぼく自身、どこか「偉そうに」していることを慚愧せざるをえません。ぼくの本性を洗いざらい知っていて、それを遠慮なく指摘できるのがわが女房どのですが、その女房どのがときどき宣うのが「偉そうに」という辛辣な一言です。彼女はぼくがブログに書いている文をチェックしては、「偉そうに」という感想を漏らすのです。そう言われて、自身をふり返ってみますと、「おっしゃる通りです」とうな垂れるしかありません。己の知識をひけらかし、いかにも何か大事なことを知っているかのように見せびらかしていると言わざるをえません。

そんなぼくに「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。そのゆゑは、如来の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、善さをしりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ悪しさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」(『歎異抄』後序)ということばが身に刺さってきます。これは親鸞のことばですが、しかし親鸞が言っているというより、如来から「おまえはそんなことで恥ずかしくないのか」と問い聞かされているというべきでしょう。


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