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仏教の歴史 [『ふりむけば他力』(その28)]

              第3章 縁起と他力

(1)仏教の歴史

 ここで視野を広げ、釈迦の説いた「縁起」と親鸞浄土教のキーワードである「他力」との関係を考えておきたいと思います。両者は一見したところ何の関係もないような顔をしていますが、何を隠そう、実に同じであることを確認しておきたいのです。
 仏教には2500年もの歴史があり、その間多くの紆余曲折がありました。なかでも最大の展開が紀元前後に起ったとされる大乗仏教の出現でしょう。それまでの仏教(大乗仏教-大きな乗り物-の立場から小乗仏教‐小さな乗り物‐とよばれます)のありようを大きく塗り替える新しい仏教が生まれてきたのです。そしてこれまでの経典(「阿含経」と総称されます)とはおよそ異なる大乗経典類が次々と編纂されていきました。「般若経典類」(その中でもっともコンパクトでよく知られた経典が「般若心経」です)、「華厳経」、「法華経」、「無量寿経」など、われらにとって馴染のある経典たちです。
 これらの経典類は「如是我聞(わたし阿難は釈迦如来からこうお聞きしました)」ではじまるスタイルをとっていますが、釈迦入滅の数百年後に編纂されたこと、そしてその内容がこれまでの経典類とは大きく異なることから、釈迦が実際に語ったことを記録したものではないことは明らかです。そこからいわゆる「大乗非仏説」が出てくることになります。大乗仏教というのはそれまでの仏教(初期仏教から部派仏教への流れ)とは縁のないものである、もっとはっきり言えば、それはもう仏教とは言えないという主張です。しかしそれはあまりにも原理主義的な発想であり、思想の歴史的展開を否定するものと言わなければなりません。
 仏教を大きな河のようなものとイメージするべきでしょう。釈迦の教説を源流として、時代の変化、広まった地域の差などがあり、そこにさまざまな支流が流れ込み、次第に大きな流れにふくらんで、ついにはガンジスのような大河になったと。上流は初期仏教と呼ばれますが、中流では部派仏教という形になり、そして下流ではそこに大乗仏教が加わって滔々とした流れになっていったとしますと、この流れのすべてが仏教であると言わなければならず、これは真の仏教であり、これは偽の仏教であるなどと分断するのは意味がありません。

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