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安楽国をねがふひと [親鸞の和讃に親しむ(その9)]

9.安楽国をねがふひと

安楽国をねがふひと 正定聚にこそ住すなれ 邪定・不定聚くにになし 諸仏讃嘆したまへり(第24首)

安楽国をねがうひと、正定聚にぞさだまりて、邪定・不定聚かげもなし。諸仏弥陀をば讃嘆す

ここで大事なことばが出てきます。正定聚です。これは『大経』の第十一願、必至滅度の願に出てきます。「たとひわれ仏を得たらんに、国中の人天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ」とある中の「定聚」で、「正しく仏と成る身と定まったもの」の意味です。それにつづく「かならず滅度に至る」は「正定聚に住す」ことと同じことを指しています。そしてこの願が成就したことを示す文に「それ衆生ありて、かの国に生るるものは、みなことごとく正定の聚に住す。ゆゑはいかん。かの仏国のなかにはもろもろの邪聚および不定聚なければなり。十方恒沙の諸仏如来は、みなともに無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したまふ」とあり、この和讃はこれをもとに詠っています。邪聚とは邪定聚のことで、仏と成ることのないもの、不定聚とは仏と成るともならないとも定まっていないもののことです。

さてではこの和讃はどういう意味か。まず「安楽国をねがふひと」ですが、このことばのもとには第十八願の成就文の一節、「かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん」があります。つまり「安楽国をねがふひと」は「すなはち往生を得、不退転に住せん」ひとであるということです。信心を得て安楽国に生まれたいと願う人は、もうそのときに(「すなはち」)往生を得て、不退転の位にいるのです(不退転とは仏と成ることから退転しないということで、正定聚と同じ意味です)。かくして「安楽国をねがふひと 正定聚にこそ住すなれ」となります。しかし考えてみますと、往生したいと願うだけで、すぐさま往生でき、正定聚に住することができるとは途方もないことと言わなければなりません。どうしてそんなことが言えるのか。それは他でもありません、それが弥陀の願い(本願)であるからです。

われらの往生・成仏は弥陀によって願われているのであり、その願いはもうすでに成就しているのです。そして「安楽国をねがふひと」とは、その弥陀の願いに気づいた人のことですから、そのときすでに「正定聚にこそ住すなれ」となります。


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