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「こちらから」と「むこうから」 [『ふりむけば他力』(その13)]

(8)「こちらから」と「むこうから」

 「生かされる」とは「生かす」という動詞に「受身」を意味する「れる」がついたものですから、どうしても「無理矢理生かされている」というニュアンスが出てきますが、ここでも「自分で生きる」のか、さもなければ「誰かに生かされている」かという「能動vs.受動」の感覚でものごとがとらえられていると言えます。実際はといいますと、自分で生きようとしているのは間違いありませんが、しかしやはりその深奥で何かに生かされているということではないでしょうか。自力で生きようとしていること自体が、実は他力によってはからわれているということです。われらが「生きんかな」と願うことができるのも、実は「生かしめんかな」と願われているからということ。「自力か、さもなければ他力」ではなく「自力であり、かつ他力」です。
 仏教語としての自力と他力の関係について考えてきましたが、さらにこの対概念を別の角度から眺めたいと思います。自力と他力は、「こちらから」と「むこうから」と言い換えることができるということです。
 自力とは「こちらから」何かをつかみ取る(ゲットする)ということです。われらが生きるということはさまざまなものを「こちらから」つかみ取ることに他なりません。まず衣食住をつかみ取らなければなりませんし、そのためには職をつかみ取らなければなりません。また健康をつかみ取ることも必要ですし、さらには愛をつかみ取り、できれば名誉もつかみ取りたいと思う。このようにわれらはもう無数のものをつかみ取るべく日々懸命に生きているわけですが、そのためには「こちらから」出かけていかなければなりません。じっとしていれば必要とするものが「むこうから」降ってくるというようにはなっていないからです。これが自力ということですから、生きることは隅々まで自力であるということになります。
 一方、他力とは「むこうから」つかみ取られる(ゲットされる)ことです。あるとき弥陀の本願力に「むこうから」むんずとつかみ取られ、そのなかに摂取されるということです。親鸞の和讃に「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」とあり、その「摂取」に親鸞自身が注を付け、「もの(人です)の逃ぐるを追はへとる」としていますが、そのように本願力はわれらを後ろから「追はへとる」のです。われらは気づいたときにはすでに「追はへとられて」いる、これが他力ということです。

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