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五濁増のときいたり [親鸞の和讃に親しむ(その70)]

(10)五濁増のときいたり

五濁増のときいたり 疑謗(ぎほう、疑いそしる)のともがらおほくして 道俗ともにあひきらひ 修するをみてはあだをなす(第83首)

不幸なときがやってきて、念仏うたがう人おおく、道俗ともに嫌っては、念仏衆にあだをなす

阿弥陀仏って何だよ、本願なんてどこにあるんだ、という声はあたりに満ち満ちています。そんな物語を信じることはできない、という声です。親鸞はそれに対してこう言っていました、「弥陀仏は自然のやう(様)をしらせん料(手立て)なり」(「自然法爾章」)と。ここで「自然」とは、われらのはからいによってではなく、おのずからわれらにある気づきをもたらすはたらきを指しています。そうしたはたらきに仮に「弥陀仏」という名を与えているだけだということです。われらは「わたしのいのち」というものがあり、それをわれらひとり一人が自由に裁量していると思っています。ところがあるとき、それは囚われであるという気づきがやってくる。「わたしのいのち」に囚われ、それがためにさまざまな苦しみをなめているという気づきです。この気づきは自分のなかからでてくるものではありません、それはどこかむこうからやってくると感じられます。その「むこうから」を「弥陀仏から」と言っているだけというのです。

「わたしのいのち」に囚われていることに気づかせてくれるのは「ほとけのいのち」であるということです。「わたしのいのち」が実体としてあるのではないように(それを実体とすることが囚われに他なりません)、「ほとけのいのち」も実体としてあるのではありません。「わたしのいのち」に囚われることは、「わたしのいのち」という牢獄に自分を閉じこめることですが、そのことに牢獄の外から気づかせてくれるはたらきを「ほとけのいのち」と呼んでいるだけです。「わたしのいのち」という牢獄に自分を閉じこめていることに気づかされることは、取りも直さず、その牢獄には外があることに気づかされることですが、その外を「ほとけのいのち」と呼んでいるのです。かくして「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」に包みこまれていることになります。浄土の教えで「摂取不捨」と言われるのは(「光明遍照 十方世界、念仏衆生 摂取不捨」、光明はあまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てず)、「わたしのいのち」はそのままで「ほとけのいのち」にそっくり包みこまれているということです。

(第7回 完)


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