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かの如来の名を称し [『教行信証』「信巻」を読む(その36)]

(5)かの如来の名を称し


 経典からの引用が終わり、これから高僧たちの要文が引かれます。まずは曇鸞の『論註』から。長いので前後二段に分け、まず前段です。


 『論の註』にいはく、「〈かの如来の名(みな)を称し、かの如来の光明智相のごとく、かの名義(みょうぎ、名号の意味)のごとく、実のごとく修行し相応せんと欲ふがゆゑに〉といへり。〈称彼如来名(かの如来の名を称し)〉といふは、いはく無礙光如来の名を称するなり。〈如彼如来光明智相(かの如来の光明智相のごとく)〉といふは、仏の光明はこれ智慧の相なり。この光明、十方世界を照らすに障礙あることなし。よく十方衆生の無明の黒闇を除く。日・月・珠光のただ室穴のうちの闇を破するがごときにはあらざるなり。〈如彼名義欲如実修行相応(かの名義のごとく、実のごとく修行し相応せん)〉といふは、かの無碍光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破す、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。しかるに称名憶念することあれども、無明なほ存して所願を満てざるはいかんとならば、実のごとく修行せざると、名義と相応せざるによるがゆゑなり。


ちょっとおさらいをしておかなければなりません。天親の『浄土論』は「願生偈」とそれを解説する「長行(散文)」からなりますが、その「長行」のはじめに五念門が上げられます。「安楽国土に生じて、かの阿弥陀仏を見たてまつる」ためには、礼拝・讃嘆・作願・観察・回向の五念門(五行)を修することが必要であるとして、そのそれぞれについて解説されます。そして二つ目の讃嘆門について「いかんが讃嘆する。口業をもつて讃嘆したてまつる」と述べ、そのあと、この引用文の最初の文「かの如来の名を称し、かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、実のごとく修行し相応せんと欲ふがゆゑに」につづくのです。このようにこれは阿弥陀仏の名号を称えることについて述べているのですから、はて、どうして信について説くところで、これを引用するのだろうかという疑問が生じます。しかし曇鸞がこの文を注釈しているのを読むうちに、その疑問はおのずから氷解していきます。



タグ:親鸞を読む
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