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中動態 [「親鸞とともに」その13]

(13)中動態

われらは「能動―受動」の文法に基づいて世界を見ていますから、世界そのものが「する」か「される」かのどちらかで出来上がっていると思っているのですが、あにはからんや、「する」でもあり「される」でもある中動態の世界があるということです。国分氏が上げている例ですが、昼ごはんにカレーを食べたいと思ったとしましょう。それは紛れもなく「わたし」に起こったのですから能動です。しかしそれはどこかからカレーのいい匂いがしてきて、それにつられて「カレーを食べたいな」と思ったのかもしれません。そうしますとそれは受動です。このようにわれらの行動が能動でもあり、かつ受動でもあるというのはざらにあると言わなければなりません。

この中動という事態を言いあらわすものとして「うながされる」とか「はからわれる」ということばがあります。自分で何かをしようと思っているのは確かですが、実はそうするように「うながされ」、「はからわれて」いるということです。

「生かされる」という言い回しに戻りますと、これは「能動―受動」の二項対立に囚われることによって単純に受動と受けとめられることが多いものの、それが表そうとしているのは、間違いなく自分で生きようと思っているにもかかわらず、実はそのように「うながされ」、「はからわれて」いるということです。「わたし」は誰に指図されるでもなく自分で生きたいと思っています。しかし、その生きたいという思いそのものが、「わたし」をかたちづくっている無数のつながりにより、そのように「うながされ」、「はからわれて」いるのです。これが「生かされている」ということで、そこから「ありがたい(あることかたし)」という思いが湧き出てきます。

「わたし」は「わたし」を取り巻いている無数の「つながり」によって「生かされている」のですが、この無数のつながりを「ほとけのいのち」とよぶことにしますと、それぞれの「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」に「生かされている」ということになります。この両者の関係をさらに踏み込んで考えていきたいと思います。


タグ:親鸞を読む
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