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「わたし」がない! [『歎異抄』を聞く(その53)]

(11)「わたし」がない!

 同じ「宿善のもよおし」なのに、あるときは人間にとってもっとも尊いものが侵されたように感じ、あるときは爽快感を覚えるのはどういうわけかといいますと、事前にそれを知っていたか、それとも事後にそのことに気づいたかの違いです。
 あることが自分を蚊帳の外においたまま進められていて、自分もその企てに組み込まれていることを知ったとき、その結果が自分にとってどれほど利益になることであるとしても、「オレの意向はどうなるのだ」とその企てが不快になります。「オレの人生はオレが決める」と言いたくなります。
 しかし、あることをしてしまった後で、自分ではそんなことをしようなどとは思いもしなかったのに、何か知らない力に乗せられるようにしてしまったと気づくとき、そこには「わたし」がありませんから、「わたし」がないがしろにされたと思うわけがありません。むしろ、思わず知らずにしてしまったことに爽快感を覚えるのです。
 さて、「宿善のもよおし」というものは事後にはじめて気づくのであり、それを事前に知ることはできません。
 もしそれを事前に知り、それにのっとって事をおこすとしますと、それはもう「宿善のもよおし」というものではなくなっています。それは過去のデータを分析して、将来なにをするかを考えるというごく普通の人間の企てであり、その主役は「わたし」です。「わたし」が過去を分析し、将来を企画するのです。だからこそ、そこでこの「わたし」がのけ者にされますと怒りが噴き出るのです、「オレはどうなるのだ」と。しかし、繰り返し言いますように、「宿善のもよおし」に気づくとき、そこには「わたし」がいません。「無我」になっているのです。
 無我は、そうなろうとしてなれるものではありませんが、「宿善のもよおし」に気づいたとき、思わず知らずにそうなっているのです。

                (第5回 完)

タグ:親鸞を読む
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