SSブログ
『歎異抄』ふたたび(その103) ブログトップ

「わたし」という囚われ [『歎異抄』ふたたび(その103)]

(4)「わたし」という囚われ


 宿業の思想は決して自由を否定しませんし、責任を否定するのでもありません。いや、それは否定するも何も、われらが生きることの大前提となっています。何をなすにせよ、それは自分が「そのようにしよう」と思ってしています。たとえそれがどれほど嫌なことであろうと、それをするからには「嫌だけれどもせざるをえない」と思ってしています。ですからそれはあくまで自分の行為であり、それに対して責任を負わなければなりません。それをあえて否定する人は「わたしはロボットです」と宣言していると言わなければなりません。


その上で、宿業の思想はこう言います、それはしかしすべてある囚われが生み出している思い込みであると。お望みなら幻影と言ってもいい。われらは自由である「かの如く」思っているだけであり、責任がある「かの如く」振る舞っているだけだということです。幻影と言い、「かの如く」に過ぎないと言いましたが、しかしそれはただの「まぼろし」ではありません。ただの「まぼろし」でしたら「まぼろし」であると判明した瞬間に消えてしまいますが、この囚われは、それが消えてしまうとたちまち生きる途を見失ってしまうようなものです。何を言っているのか、もうお分かりでしょう、「わたし」という囚われのことです。


そんなものはどこにもありはしないのに(だから幻影です)、実体としての「わたし」がある「かの如く」に仮構して、何ごとも「わたし」が「そうしよう」と思うことが起点となっていると思い、その思いに囚われています。これを仏教では我執と言いますが、この我執に気づくことが取りも直さず宿業に気づくことです。すべて「わたし」が「そうしよう」と思ってしていますが、「そうしよう」と思うこと自体が宿業によって定められているということです。


お気づきのように、宿業とは釈迦が縁起ということばで表現したことと同じで、何ごとも「縁(よ)って起こる」ということです。「たとへばひと千人ころしてんや」という話はそれを印象的に分かりやすく示してくれます。「一人にてもこの身の器量にては、ころしつべしともおぼえぬ」のは「一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず」です。



タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『歎異抄』ふたたび(その103) ブログトップ