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8月14日(日) [矛盾について(その376)]

 不幸なすれ違い。何度も引き合いに出しますが、『歎異抄』第2章の関東の弟子たちと親鸞との出会いの場面は、この不幸なすれ違いを見事な筆さばきで示してくれます。
 「みなさんはるばる十余か国の国境を越えて、命がけでわたしを訪ねてくださったのは、ひとえに極楽往生の道を問いただそうと思ってのことでしょう。しかし、念仏より他に往生の道を知っているとか、また教えが説かれた法文などを知っているのではないだろうかとお思いでしたら、それはとんでもない間違いです。…わたし親鸞におきましては、ただ念仏して阿弥陀仏にお救いいただけばよいと法然上人から教えられ、それを信じる以外に取り立てて何もありません。念仏は、本当に浄土に往生できる種であるか、あるいは地獄に落ちる業であるか、そもそもわたしは知りません。」
 そして、こうとどめを刺します、「たとえ法然上人に騙されて、念仏して地獄に落ちたとしましても、全く後悔はありません」と。わたしはすでに念仏を生きているのですから、たとえそれが地獄へのみちだとしても、何の後悔もないと言うのです。
 いかがでしょう、ここには念仏がほんとうに往生のみちであるかどうかを「見よう」としている弟子たちと、念仏をすでに「生きている」親鸞とのすれ違いがよくあらわれています。「見よう」としている限り、こんな煩悩まみれの身が、念仏するだけで往生できるなんて信じられません。「いまだ救われていないが、もうすでに救われている」なんて矛盾でしかありません。しかし親鸞はその矛盾をみずから「生きている」のです。「いまだ救われていない」ことを悲しみながら、同時に「もうすでに救われている」ことを喜んでいるのです。
 親鸞にとってはその矛盾の中に真実があるのです。

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