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如来の至心をもつて [『教行信証』「信巻」を読む(その100)]

(4)如来の至心をもつて

どこかからやってくる啓示という言い方をしてきました、そしてそれはもう否定しようのない真実としてやってくると。これがここで「如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり」と言われていることです。「如来」がその「至心」をわれら群生海に「回施したまふ」と言われていますのは、真実は如来からわれらのもとへ届けられるということす。われらが語ることにいやしくも真実があるとすれば、それはわれらがみずからのことばとして語っているのではなく、それは如来からやってきたことばであるということです。「至心」とは「真実の心」です。われらには「穢悪汚染にして清浄の心なし。虚仮諂偽にして真実の心なし」と言われたあの「真実の心」で、それが如来から回施されるのです。

如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり」につづいて、「すなはちこれ利他の真心を顕す。ゆゑに疑蓋まじはることなし」と言われていますのは、この至心は如来から回施されるものですから、そこに「虚仮諂偽」はまったくないということです。これは、われらが何か真実を語ることがあるとすれば、それはわれらから出たものではなく、みな如来から回施されたものであるということを意味します。なぜなら、われらはもともと「穢悪汚染にして清浄の心なし。虚仮諂偽にして真実の心なし」であるからです。

さて最後に付けたしのように「この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり」と言われていることの意味を考えておかなければなりません。この「体とする」という言い方はときどき出てきます。すぐ頭に浮ぶのは「教巻」の「仏の名号をもつて経の体とするなり」ということばで、これはこの経(大経)に説かれていることは名号ひとつに体現されているということ、あるいは経のすべてが名号一つのなかに収められているということです。ここでも如来回向の至心は名号に体現されているということで、如来から回施される至心のすべては名号一つのなかに収まっているという意味になります。ですから、名号が聞こえること(聞其名号)は、まさに如来の至心がわれらに届けられているということです。


タグ:親鸞を読む
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