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時間というもの [親鸞最晩年の和讃を読む(その65)]

(3)時間というもの

 縁起は「繋がり」であるのに対して、因果は「分離」であることを見ましたが、次いで縁起は「双方向」であるのに対して、因果は「一方向(不可逆)」であることを確認しておきましょう。「これあるに縁りてかれあり」は同時に「かれあるに縁りてこれあり」ですが、「この因からこの果が生まれる」は決して「この果からこの因が生まれる」とはなりません。そこからさらに縁起には「時間の流れがない」が、因果には「時間の流れがある」ということが出てきます。因と果の間には、長短の差はあっても、かならず時間の経過があり、ここに因果の法の本質があると言えます。
 ここで時間というものに注目しましょう。前にちょっと言及しましたカントは時間について実に驚くべき発想の転換をしました(これをカントのコペルニクス的転回と言います)。われらは時間というものは世界そのもののありようであると思い込んでいますが、カントはわれらが時間という形式を世界の中に持ち込んでいると言うのです。つまり、混沌とした世界を整然としたものとして認識するために、われらは時間の流れという形式(そして空間の広がりという形式)を世界に当てはめ、そこに人間的な秩序を造り上げているということです。時間(と空間)は世界自体の形式ではなく、われら人間の形式であると。
 そんなばかな、と言われるかもしれません、人間が勝手に世界に時間を持ち込んでいるなんて考えられない、と。でも、世界そのものに時間があるとしますと、困ったことが出てくるのです。
 ゼノンのパラドクス(背理)をご存知でしょうか。いくつかありますが、いちばんよく知られているのが「アキレスと亀」で、足の速いアキレスが前にいる亀を追いかけるが、さて追いつけるかという問題です。ゼノンの答えは驚くべきもので、追いつけないと言うのです。彼の理屈はこうです、アキレスが亀がもといたところに着くまでに、亀はのろまと言えども少しは前進している。アキレスがその距離を詰める間にまた亀はほんの少し前進している。以下同じで、どこまでいっても追いつけない、と。屁理屈とも見えますが、いまも世界の哲学者たちの頭を悩ませ続けている難問です。

タグ:親鸞を読む
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