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よきひとの仰せ [『ふりむけば他力』(その120)]

            最終章 他力に遇うということ

(1)よきひとの仰せ

 前章の終わりに、弥陀の本願とわれらの信心(気づき)は宿縁に媒介されていると述べましたが、さてそれは何を意味するか。それは、弥陀の本願は直接われらのもとにやってくるのではなく、「よきひとの仰せ」(『歎異抄』第2章)を通して届けられるということです。本願がいわば中空から直に降りてくるのでしたら、それは間違いなくみんなに届くでしょうが、どういうわけか、そのようになっているのではなく、そこに必ず「よきひと」が介在するのです。キリスト教やイスラム教の場合、神の声は直にやってきます。例えばパウロ。彼はキリスト教徒を捕縛せんとダマスコ(ダマスカス)に近づいたとき、「忽ち天より光いでて、彼をめぐり照らしたれば、かれ地に倒れて『サウロ(パウロのユダヤ名です)、サウロ、何ぞ我を迫害するか』といふ声をきく」(『使徒行伝』第9章)のですが、これはイエスが天から発している声です。
 一方、弥陀の本願はどうかといいますと、前にも引いたことがありますが、『歎異抄』第2章にこうあります。「十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずしてたづね」てきた関東の弟子たちに向かって親鸞はこう言うのです、あなたがたはわたしが「念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらん」と思っておられるのかもしれませんが、それはとんでもない間違いです。もしそうお思いでしたら「南都北嶺にもゆゆしき学生たち(学者たち)おほく座せられて候なれば、かのひとにもあひたてまつりて、往生を要よくよくきかるべきなり」と。そしてこう言います、「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(すなわち法然)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」と。
 そしてさらに決定的なことばがきます、「たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ」と。この尋常ならざることばは何を語っているか。それは、わたし親鸞は「よきひとの仰せ」を通して、確かに弥陀の本願を受けとりました、ということです。もうすでに弥陀の本願がわたしに届いたのですから、それ以上に何を求めよと言うのでしょうか、と述べているのです。弥陀の本願は、それがわたし親鸞に届いたことそれ自体がその存在証明であり、それ以外のどこにもそれを証明するものはありません。だからこそ、「たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ」となるのです。

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