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二種深信 [『歎異抄』ふたたび(その111)]

(3)二種深信


「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫と信ず」を機の深信、「かの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず」を法の深信と言いますが、大事なことはこの二つの関係です。信心に機の深信と法の深信の二つがあるのではありません、コインに表と裏があるように、ただ一つの信心を表から見れば機の深信だけれども、裏から見れば法の深信であるということです。したがって機の深信は取りも直さず法の深信であり、法の深信はそのまま機の深信に他ならないということ、ここに信心の真相があります。


「そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」という述懐はそれを見事に言い表しています。「そくばくの業をもちける身にてありける」と信じるのが機の深信であり、「たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と信じるのが法の深信で、この二つが切り離しがたく結びついています。「そくばくの業をもちける身にてありける」と信じた上で、「たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と信じるのではありません。「そくばくの業をもちける身にてありける」と信じることが、取りも直さず「たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と信じることです。


大乗仏教の奥義として「生死即涅槃」「煩悩即菩提」が上げられますが、生死(煩悩)すなわち迷いがそのまま涅槃(菩提)すなわち悟りであると言われても、なるほど左様でございますかとすんなり受けいれられるものではありません。あからさまに対立するものがひとつであると言われるのですから、普通の論理では矛盾としてただちに排除されてしまいます。光はそのままで闇であると言うようなものですから、われらの頭はついて行くことができません。しかし「生死即涅槃」「煩悩即菩提」には何か強いメッセージ性が感じられ、ナンセンスと切って捨てることができない。何しろこのことばは大乗仏教とともに二千年の長きにわたって多くの人たちに生きる力を与えてきたのですから。


ここにはどんな秘密が隠されているのでしょうか。



タグ:親鸞を読む
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