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「親鸞とともに」その69 ブログトップ

はじめに(7) [「親鸞とともに」その69]

第7回 願うということ

(1)はじめに

われらは日々さまざまなことを願っています。ぼくはいま周期的に襲ってくる原因不明のアレルギー性湿疹に悩まされ、この不快な症状が早く引いてくれないかと願っていますが、そのように人それぞれ切実な願いをもって生きています。生きるとは願うことだと言うこともできるでしょう。で、これから考えてみたいと思いますのは、浄土の教えの原点である本願(本の願い)と、われらの願いとはどのような関係にあるのかということです。「ほとけの願い」と「わたしの願い」は本質的に同じものなのか、それともまったく違うものなのかと。

まず「ほとけの願い」すなわち本願とは何かを確認しておきましょう。『無量寿経』によりますと、むかし、気の遠くなるほどむかしに、法蔵菩薩が世自在王仏のもとで修行するなかで一切の衆生が安らかに生きられる浄土を建立しようという大願をたてられました。それが四十八願で、その中心となるのが第十八願です。それは「十方の衆生、至心信楽してわが国に生ぜんと欲(おも)ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ」というもので、十方世界の一切の衆生が、わたしを心から信じ、わたしの浄土に生まれたいと願って十回でも念仏するようになり、そうして往生できるようにしたい。そうでなければわたしは仏になるまいという誓願です。

この誓願が成就して法蔵菩薩は阿弥陀仏となられたことから、これを「本の願い」という意味で本願(プールヴァ・プラニダーナ)と呼ぶのですが、それをこの世界の「はじめの願い」と受け取ることができます。キリスト教では「はじめにことばありき」(「ヨハネ福音書」)と言われますが、浄土教では「はじめに願いありき」で、この世のはじめからあらゆるいのちに大いなる願いがかけられているということになります。その願いをひと言でいいますと、「いのち、みな生きらるべし」(これはリルケの詩の一節です)、あるいは「なんぢ一心正念にしてただちに来れ、われなんぢを護らん」(これは善導の「二河白道の譬え」にある弥陀招喚の「こえ」です)と言い表すことができます。


タグ:親鸞を読む
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