SSブログ
親鸞の和讃に親しむ(その21) ブログトップ

至心・回向・欲生と [親鸞の和讃に親しむ(その21)]

第3回 浄土和讃(3)

(1)至心・回向・欲生と(大経讃のつづきです)

至心・回向・欲生と 十方衆生を方便し 名号の真門ひらきてぞ 不果遂者(果遂せずは、往生させずばあらじ)と願じける(第64首)

至心・回向・欲生と、衆生のために方便し、名号の門ひらいては、かならず救うと誓いたり

今度は第20の願、植諸徳本(じきしょとくほん)の願で、「十方の衆生、わが名号を聞きて、念をわが国に係けて、もろもろの徳本を植ゑて(名号を称えて)、心を至し回向してわが国に生ぜんと欲はん。果遂せずは正覚を取らじ」とあります。これまた親鸞は方便の願とすることは先と同じく「十方衆生を方便し」と言われていることから窺えます。先の第19願は「衆善の仮門」であるのに対して、第20願は「名号の真門」と言われますが、あくまでも真実の門である第18願へと至るための方便の門とされます。名号を称えるとは言うものの、それは「徳本を植ゑ」ることであり、名号をみずから「回向」して往生しようとしているからです。

名号を回向して往生しようとするというのは、『歎異抄』第8章のことばでは「わがはからひにてつくる善」でもって往生しようとすることであり、往生の門を前に見て「さあ、入ろう」としていることでは第19願と同然です。それに対して第18願の「乃至十念」と言いますのは、すでに述べましたように、気がついたときにはもうすでに往生の門をくぐってしまっており、そのとき思わず「ああ、ありがとうございます」と口をついて出る「南無阿弥陀仏」がそれです。ですからこの「念仏は行者のために、非行・非善なり」(『歎異抄』第8章)と言わなければなりません。

さてそこで考えておかなければならないのは、第18願という真実の願の他に、どうして第19願、第20願という方便の願が立てられたかということです。親鸞はその問題を『教行信証』の「化身土巻」で取り上げ、「三願転入」について論じています。それによりますと、われらはまず第19願の仮門に入り、次いで第20願の真門に入ります。この二つは、すでに述べましたように、「さあ、入ろう」と思って入るのですが、真門に入って「心を至し回向してわが国に生ぜんと欲はん」とするうちに、ふと「ああ、もう往生の門に入っているではないか」と気づくときがくる。それが「果遂せずは正覚を取らじ」という誓いの意味であると言うのです。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
親鸞の和讃に親しむ(その21) ブログトップ