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浄土対面してあひ忤はず [「信巻を読む(2)」その59]

第6回 ただ念仏するもののみありて

(1) 浄土対面してあひ忤はず

真仏弟子釈のつづきです。『安楽集』からの引用のあと、善導の諸著作から多くの文が引かれます。まずは『般舟讃(はんじゅさん)』です。

光明師のいはく、「ただ恨むらくは、衆生の疑ふまじきを疑ふことを。浄土対面してあひ忤(たが)はず。弥陀の摂と不摂とを論ずることなかれ。意(こころ)専心にして回(え)すると回せざるとにあり。乃至 あるひはいはく、今(きょう)より仏果に至るまで、長劫(じょうごう)に仏を讃めて慈恩を報ぜん。弥陀の弘誓の力を蒙(かぶ)らずは、いづれの時いづれの劫にか娑婆を出でんと。乃至 いかんが今日宝国(浄土)にいたることを期せん。まことにこれ娑婆本師(釈迦)の力なり。もし本師知識の勧めにあらずは、弥陀の浄土いかんしてか入らん」と。

少し前の横超断四流釈のところでも『般舟讃』から「厭へばすなはち娑婆永く隔つ、欣へばすなはち浄土につねに居せり」という印象的な文が引かれていましたが、ここでも最初の「ただ恨むらくは、衆生の疑ふまじきを疑ふことを。浄土対面してあひ忤はず。弥陀の摂と不摂とを論ずることなかれ。意専心にして回すると回せざるとにあり」という文が心に残ります。法然はこの『般舟讃』を是非とも読みたいものだと周囲に漏らしていたそうですが、この文などのように感銘深い文に満ちた書です。

もう浄土は目の前にあるではないか(「浄土対面してあひ忤はず」)、どうして疑うのか。弥陀がわれらを浄土へ往生させてくださることは言うまでもない、わがはからいを捨てて他力に乗ずるかどうか(「回すると回せざると」)が問題なのだという趣旨ですが、これを手がかりにあらためて「そもそも浄土とは何か」ということを考えておきたいと思います。いのちの終わりを前にした熱心な門徒のお婆さんが、診察にきてくれたこれまた門徒のお医者さんに、「先生、わたしは死んだ後お浄土に参れるのでしょうか」と尋ねたという話を思い出します。善導ならそのお婆さんに「浄土対面してあひ忤はず。弥陀の摂と不摂とを論ずることなかれ」と答えることでしょう。


タグ:親鸞を読む
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