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観音・勢至もろともに [『浄土和讃』を読む(その45)]

(9)観音・勢至もろともに

 菩薩和讃の4首目。

 「観音・勢至もろともに 慈光世界を照曜(しょうよう)し 有縁を度してしばらくも 休息(くそく)あることなかりけり」(第19首)。
 「観音勢至あいそろい、慈悲のひかりで世をてらし、縁ある衆生救っては、しばらくの間もやすみなし」

 もとの曇鸞の偈は「また観世音・大勢至は もろもろの聖衆において最第一なり 慈光大千界を照曜し 仏の左右に侍して神儀を顕す もろもろの有縁を度してしばらくも息(やす)まざること 大海の潮の時を失せざるがごとし かくのごとき大悲・大勢至を 一心に稽首して頭面をもつて礼したてまつる」とあります。
 親鸞は聖徳太子を観音菩薩の化身として敬っていました。親鸞にとって聖徳太子は600年も前の人ですが、自分の今日あるのは日本に仏教を根づかせてくれた聖徳太子のおかげと思っていたのでしょう。親鸞ははるかむかしに亡くなった聖徳太子を〈いま〉想起し、その姿に観音菩薩を見ているのです。先回こう言いました、ぼくらは〈いま〉娑婆にいると同時に〈いま〉浄土にいるのは、〈いま〉生者を知覚していると同時に〈いま〉死者を想起しているのと同じことだ、と。これは、浄土とは死者たちのいるところだということに他なりません。
 この感覚はぼくらの身体に馴染んでいます。「ご主人は?」の問いに「もうとっくにあちらに旅立ってしまいました」と答えますし、臨終に「一足先に行っているよ」と言ったりします。親鸞も弟子に「この身は、いまは、としきはまりてさふらへば、さだめてさきだちて往生しさふらはんずれば、浄土にてかならずかならずまちまいらせさふらふべし」と書き送っています。しかし、死者(過去)はどこかに行ってしまったのではなく、ただ想起されるだけであるように、浄土もどこかにあるのではなく、ただ想起するという形で存在するだけです。そして過去の死者を想起するのは〈いま〉であるように、浄土を想起するのも〈いま〉でしかありません。

タグ:親鸞を読む
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