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医者と病者 [「信巻を読む(2)」その55]

(9)医者と病者

次に道綽の『安楽集』から引かれます。長いので前後に分け、まずその前段。

『安楽集』にいはく、「諸部の大乗(さまざまな大乗経典)によりて説聴の方軌(教えを説くもの、聞くものの心得)を明かさば、『大集経(だいじっきょう)』にのたまはく、〈説法のひとにおいては、医王の想(おもひ)をなせ、抜苦の想をなせ。所説の法をば甘露(サンスクリットのアムリタ。神々の飲み物で不死の功能がある)の想をなせ、醍醐(牛乳を精製して造った最高の美味)の想をなせ。それ聴法のひとは、増長勝解の想をなせ、癒病の想をなせ。もしよくかくのごとき説者・聴者は、みな仏法を紹隆するに堪へたり。つねに仏前に生ぜん〉と。乃至 『涅槃経』によるに、〈仏ののたまはく、《もし人ただよく心を至して、つねに念仏三昧を修すれば、十方諸仏つねにこの人を見そなはすこと、現に前にましますがごとし》〉と。このゆゑに『涅槃経』にのたまはく、〈仏、迦葉菩薩に告げたまはく、《もし善男子・善女人ありて、つねによく心を至し、もつぱら念仏するひとは、もしは山林にもあれ、もしは聚落にもあれ、もしは昼もしは夜、もしは坐もしは臥に、諸仏世尊つねにこの人を見そなはすこと目の前に現ずるがごとし。つねにこの人のためにして受施(布施・供養を受けること)をなさん》〉と。乃至

ここには三つの文があり、第一の『大集経』の文は、法を説く者と法を聞く者の心得を語っています。第二と第三の『涅槃経』の文は、真の仏弟子は諸仏世尊につねに護られていること、すなわち「諸仏護念の益」について語っています。

第一の文は、法を説く者は、医者として患者の苦を取り去るのだと思い、説く教えを甘露や醍醐のようなものと思いなさいと言い、法を聞くものは病者として、この教えによりすばらしい智慧をえて病が癒えると思いなさいと語ります。このように法を説く者、聞く者を医者と病者になぞらえ、それぞれの心構えを述べているのですが、一方に医者がいて、他方に病者がいるというように捉えるべきではないでしょう。そうではなく、真の仏弟子は医者であり、同時に病者であると受けとめるべきです。真の仏弟子は医者として真実のことばを発信する人ですが、しかし同時に病者として真実のことばを受信する人であるということです。発信と受信は別々にあるのではなく、発信者は受信者であり、受信者は発信者です。


タグ:親鸞を読む
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