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本文7 [はじめての『尊号真像銘文』(その41)]

(3)本文7
 
 さて親鸞の解説が始まります。

 「勢至獲念仏円通」といふは、勢至菩薩、念仏を獲たまふと申すことなり。獲といふは、うるといふことばなり。うるといふは、すなわち因位のときさとりをうるといふ。念仏を勢至菩薩さとりうると申すなり。「大勢至法王子興其同倫」といふは、五十二菩薩と勢至とおなじきともと申す。法王子とその菩薩とおなじきともと申すを、興其同倫といふなり。「即従座起頂礼仏足而白仏言」と申すは、すなわち座よりたち、仏の御足を礼して、仏にまうしてまうさくとなり。「我憶往昔」といふは、われむかし恒河沙劫の数のとしをおもふといふこころなり。「有仏出世名無量光」と申すは、仏、世に出でさせたまひしと申す御ことばなり。世に出でさせたまひし仏は阿弥陀如来なりと申すなり。十二光仏、十二度、世に出でさせたまふを「十二如来相継一劫」と申すなり。十二如来と申すは、すなわち阿弥陀如来の十二光の御名なり。相継一劫といふは、十二光仏の十二度世に出でさせたまふを、あひつぐといふなり。「其最後仏名超日月光」と申すは、十二光仏の世に出でさせたまひしをはりの仏を超日月光仏と申すとなり。「彼仏教我念仏三昧」と申すは、かの最後の超日月光仏の念仏三昧を、勢至には教へたまふとなり(以下、本文8につづく)。
 
 「勢至念仏円通を獲たり」と言いますのは、勢至菩薩が念仏を得られたということです。獲とは「得る」ということです。得ると言いますのは、修行をしている因位の時に悟りを得るということです。勢至菩薩が念仏を悟り得たと言うのです。「大勢至法王子、その同倫(の五十二菩薩)と」と言うのは、五十二菩薩と勢至菩薩が同じ仲間だということです。勢至法王子とそれらの菩薩たちは同じ仲間だということを興其同倫というのです。「すなはち座より起ち、仏足を頂礼して仏にまうしてまうさく」と言うのは、直ちに座席よりたって仏の御足に礼拝して、仏に次のように申し上げたというのです。「われ往昔(の恒河沙劫)を憶ふに」とは、わたしは考えられないような長い過去のことを思い起こすということです。「仏ありて世に出でます。無量光と名づく」と言うのは、仏が世に出られたということです。世に出られたという仏は阿弥陀如来だと言っているのです。十二光仏が、十二度世に出られたことを「十二の如来、一劫にあひ継ぎ」と言っているのです。十二如来とは、阿弥陀如来を十二光の光であらわした名前のことです。相継一劫とは、十二光仏が相次いで十二度世に出られたことを言っているのです。「その最後の仏を超日月光と名づく」と言いますのは、十二光仏が相次ぎ世に出られた、その最後の仏が超日月光仏だということです。「かの仏、われに念仏三昧を教へたまふ」と言いますのは、かの最後の超日月光仏が勢至菩薩に念仏三昧を教えられたということです。

タグ:親鸞を読む
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