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どうして「ただ念仏の一門のみ」か [はじめての『高僧和讃』(その188)]

(16)どうして「ただ念仏の一門のみ」か

 次の和讃です。

 「男女貴賤ことごとく 弥陀の名号称するに 行住坐臥(ぎょうじゅうざが)もえらばれず 時処諸縁(じしょしょえん)もさはりなし」(第94首)。
 「男女貴賤みなともに、弥陀の名号となえるに、行住坐臥もえらばれず、時も処もへだてなし」。

 この和讃は『往生要集』下巻(大文第八)に、「一切の善業は、おのおの利益ありて、おのおの往生を得。何が故に、ただ念仏の一門のみを勧むるや」と問い、それに答えて、「念仏を勧むるは、これ余の種々の妙行を遮せんとするにはあらず。ただこれ、男女・貴賤、行住坐臥を簡ばず、時処諸縁を論ぜず、これを修するに難(かた)からず、乃至、臨終に往生を願い求むるに、その便宜を得ること、念仏にしかざればなり」と述べていることがもとになっています。
 和讃からだけでは分かりませんが、もとになっている『往生要集』の原文をみますと、源信と法然、そして親鸞の違いがはっきりと浮かび上がってきます。
 まず源信と法然で言いますと、源信は「余の種々の妙行を遮せんとするにはあらず」とありますように、称名以外の行を捨てようとはしていません。実際『往生要集』のなかに、称名以外に観仏についても詳しく説いていますが、法然はその点はっきり専修念仏の立場をとります。「(阿弥陀経に)少善根福徳の因縁をもつて、かの国に生ずることを得べからず、といふは、諸余の雑行は、かの国に生じ難し。故に(善導は)縁に随ふ雑善(ぞうぜん)は、おそらくは生じがたし、と云ふ」(『選択集』)といった具合です。
 また親鸞との違いでは、「臨終に往生を願い求むるに、その便宜を得ること、念仏にしかざればなり」の文言が目に入ります。念仏は普段から「修するに難からず」ですが、とりわけ臨終においてこれにまさって行じやすいものはない、ということです。しかし何度も言いますように、親鸞にあっては「臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心のさだまるとき往生またさだまる」のですから、臨終において修しやすいかどうかは問題になるわけがありません。

タグ:親鸞を読む
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