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仏恩のふかきこと [親鸞の手紙を読む(その29)]

(15)仏恩のふかきこと

 追伸として述べられているのは「仏恩のふかきこと、そのきはもなし」ということです。仏恩のかたじけなさは、第18願の人が「真実の報土へ往生して大涅槃のさとりをひらか」せていただけることにあるのは言うまでもありませんが、第19願・20願の人も切り捨てられることなく、「不可思議のたのしみにあふこと」にあらわれているというのです。この「不可思議のたのしみ」とはおそらく臨終に際して聖衆の来迎を受け、仮の浄土ではあっても往生させていただけることを指していると思われます。
 この手紙全体をあらためて読み直してみますと、まずは第19願の自力の立場(「わがみをたのみ、わがはからひのこころをもて」往生しようとする立場)と第18願の他力の立場(「如来の御ちかひ」の力で往生させていただく立場)の違いをくっきりと浮かび上がらせた上で、しかし第18願の人は「諸仏の御おしえをそしることなし、余の善根を行ずる人をそしることなし」という結論へと導いていることが分かります。たとえ第19願の人から憎まれそしられても、「にくみそしることあるべからず」と言わんとするのがこの手紙の趣旨であることが明らかです。
 そしてこの追伸で、「にくみそしることあるべから」ざる根拠として「仏恩のふかきこと、そのきはもな」いことが上げられ、ふかき仏恩は第18願の人の上だけでなく、第19願の人にも注がれていることを指摘しているのです。もし「わがみをたのみ、わがはからひのこころをもて」往生しようとする「修諸功徳」の立場が偽として退けられるだけならば、どうして第18願とは別に第19願が誓われているのか理解できないではないかということです。往生を求める人、救いを求める人にはわけ隔てなく往生が与えられるのです。ただ、「わがみをたのみ、わがはからひのこころをもて」往生をしようとする人は、すでに「ほとけのいのち」を生きているにもかかわらず、そのことに気づくことなく、ひたすら臨終の来迎をまつことになるのですが。

                (第2回 完)

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