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「見る」と「聞く」 [「『正信偈』ふたたび」その37]

(7)「見る」と「聞く」

さて第一句ですが、「見て敬い」の「見る」は、この場合「聞く」ということです。「聞見」ということばがありますが、これは「眼見」に対し、聞くことによりものごとを了解するという意味で、いまの「見る」はこの「聞見」です。

そこで「かたち((しき))」を「見る」ことと「こえ」を「聞く」ことについて少し考えておきましょう。われらは「こえ」を「聞く」ことより、「かたち」を「見る」ことに価値を置くものです。「百聞は一見に如かず」とも言われ、何度聞いてもよく分からないが、図で示されるとたちどころに分かることがよくあります。そこから、どうしても「見る」ことが「聞く」ことの上に置かれます。この間のテレビ番組で天気予報のことをやっていまし、画面に示されたお天気マークと予報士のことばが食い違っている場合(画面は「晴」、予報士のことばは「雨」であるような時)、人はお天気マークを見るだけで判断し、予報士のことばは聞いていない(聞こえていない)そうです。

しかし世の中でもっとも大切なものは、その「かたち」を「見る」ことはできず、「こえ」として「聞こえる」だけです。それは「ほとけのいのち」です。

繰り返し述べましたように、「ほとけのいのち」は「体」(実体)ではなく「用」(ゆう、はたらき)です。「ほとけのいのち」が「体」でしたら、それは「わが身」とは別のどこかに「かたち」として存在するはずですから、それを「見る」ことができるでしょう。しかし「ほとけのいのち」は「用」として「わが身」の上にはたらいているのですから、それを「見る」ことはかないません。ではそれが「わが身」の上にはたらいていることがとどうして分かるのかといいますと、それは「こえ」として「聞こえてくる」からです。「ほとけのいのち」は「こえ」となって「わが身」の上にはたらいているのです。この「こえ」は普通の「声」ではありません。普通の「声」でしたら、それを音波として可視化することができるでしょうが、この「こえ」はどのような意味でも「見る」ことはできません。

さて「ほとけのいのち」が「こえ」となって「わが身」の上にはたらいていることが感じられたとき、われらに「大慶喜」が生まれます。これが「信をえて、みてうやまひ、おほきに慶喜すれば」ということです。


タグ:親鸞を読む
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